ベトナム雑記帳 年表 解説 home
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ベ ト ナ ム の 創 始 期

・旧石器時代
  ベトナム最古の人類が生活した痕跡はベトナム北部のタインホア省のヌイド(ド山)で出土した約30万年前の
  旧石器時代の石器です。さらには、ヴォン人の歯が発見されており、これは北京原人の形状と年代が合致
  しているといわれる。また、フム洞窟から発見された歯は8万年前のものとされている。

・中石器時代
  紀元前2万年頃になると中石器時代となり、ソンビ文化と呼ばれる。この時代の遺構がゲィンフー省で発掘
  されています。出土品からの推定ではソンビ文化人は狩猟、採集生活をしていた。更に、紀元前1万年前に
  なると、現在と同じような気候、地理的環境にあったと想像され、この頃をホアビン文化(フランスの考古学
  者がハノイ南西部にあるホアビン地区から発掘したのにちなんで命名された)と呼び、ベトナム考古学者の
  間では、この頃に原始農耕が始まったものと想定しています。ベトナムに限らず、インドシナ半島を中心に、
  洞窟から多くの遺構が出土しています。この期の末期には「バクソン斧」と呼ばれる石斧が出現しています。

・新石器時代
  紀元前6000年頃になると新石器時代へと移り、初期の文化はバクソン文化(ハノイ北東のランソン省のバク
  ソン山の洞窟からの発掘にちなみ命名)といわれ、ホアビン文化が発展したものである。バクソン文化を代
  表する石器は刃部磨製の石斧である。土器は未だ発達していなかったと推測される。また後期になると今
  までの洞窟の生活から広い土地に下りてきて、狩猟、漁業から稲の栽培も行うようになったと考えられます。
  農業技術が初歩的な発展を行い、石器磨製技法が発達しています。

・雄王(フン・ヴォン)
  ベトナム北部、紅河デルタ地域に国家の形態を初めて持ったというヴァンラン(文郎)国家を作ったと言われ
  る。当時、中国南部には「越」と総称される諸民族がおり、その居住範囲はベトナム北部にまで及んでいた。
  この越族のうちベトナム北部に住んでいたグループと考えられる。 文郎国は、雄王(フンヴオン)とよばれる
  支配者によって代々統治されていた。雄王とは、世襲する代々の王にうけつがれた称号であって、ひとりの
  王の名前ではない。ただ、ベトナム最初の国家といっても、国家形態を示す確かな記録も遺構の発掘もな
  く、代々の雄王についても個々の名前は不明で、いまだに半分は伝説の世界にあるとも言われる。場所的
  にはフート省(ハノイから北西に約70km)のあたりと推定されており、現在この地には雄王陵がある。雄王
  陵は「ベトナム民族の祖」的な存在としてまつられており、毎春盛大な祭りがおこなわれる。
  文郎国は紀元前258年にアン・ズオン・ヴォン(安陽王)に滅ぼされたとされる。

・フングェン文化
  紅河デルタ地域の後期新石器文化の1つである。紅河とダー川との合流点に近い、開地遺跡のフングェン
  遺跡の名前を冠して命名された。この遺跡はベトナム後期新石器文化の発展と青銅器文化の接点となる重
  要な遺跡でもある。フングェン文化は、ビィンフー省、ハバック省、ハノイ市、さらに東は遠くハイフォン市のチ
  ャンケン遺跡に至る紅河デルタ下流流域の広い地域にわたって分布している遺跡がこのフングェン遺跡の
  内容と類似する特長を持っている。フングェン文化は石器製作の上で完成の域に到達しているとされる。石
  器は完全に研磨された磨製石器で、平面形・断面形ともに方形の方角石斧が主で、有形石斧は稀である。
  北のハロン文化や南のホアロク文化の石斧の状況とは異なる。土器は甕、壺、高杯など形・文様ともに多様
  性に富み美しい。紡錘車の出土から布も織っていたらしい。また、フングェン文化人は最初の完全な稲作農
  耕民であったことが推測される。また、フングェン文化の遺跡から青銅製の破片が出土していることは、次
  の新しい時代として、金属の道具を作り、使用する時代への過渡期でもあったと想定出来る。

・青銅器文化
  ベトナムの青銅器文化はフングェン文化→ドンダウ文化→ゴムン文化→ドンソン文化と4期にわたる初期金
  属文化で表される。フングェン文化後期に青銅製作が行われ、紀元前1000年前半からベトナム北部で青銅
  器製作が定着し始めた。フングェン文化に続くドンダウ文化では、ドンダウ遺跡から斧の石製鋳型が出土
  し、扇状斧、釣針、矛などの青銅器も出土している。さらに、紀元前1000年中期のゴムン文化では青銅器の
  種類も量も増え、斧、靴形斧、釣針、釜、矛、腕輪などの農耕具、武器、装身具が作られている。そうして、
  東南アジアを代表する金属器文化であるドンソン文化になると、鉄器の実用化の時代に入っていく。この4つ
  の文化期をみると、フングェン文化、ドンダウ文化では石器は石斧や石鑿(ノミ)が実用工具として大量に製
  作されていた。一方、鋳造されだした青銅製の斧は使用範囲はかなり限定的なものであったと思われる。こ
  れに反しゴムン文化では石斧や石鑿は減少しだし、ドンソン文化では殆ど消滅したと考えられる。北部ベト
  ナムの初期金属文化は初期のフングェン文化、ドンダウ文化から過渡期のゴムン文化をはさんでドンソン
  文化での本格的金属文化へと移っていったと考えられる。このドンソン文化で最も注目されるのが銅鼓であ
  る。これは重要な祭祀に使われた道具であるとともに、所有することが権力者としての証でもあり、富と権力
  と支配力の象徴であったものと思われる。ベトナムにおける青銅器文化の遺跡は北部だけでなく、他地域
  でも同じような過程で発見されている。たとえば、南部のドンナイ文化を代表するビンズン省のゾクチャア遺
  跡からは後期新石器時代から青銅器時代の4つの文化に符合する出土品が見られる。

・サーフィン文化
  ベトナム北部でドンソン文化が栄えた頃に、中部でも鉄器が中心の文化が栄えた。クァンガイ省のサーフィン
  海岸に遺跡がみられる。遺跡からの出土品には台湾、フィリッピン、タイ西部から出土するものと類似する
  ものが多く、このことからマレー系のチャム人の遺跡ではないかと想像される。

・アン・ズオン・ボン(安陽王)
  雄王の文郎国は中国を支配した秦の始皇帝により再三攻撃を受けていた。この危機の時期に中国の国境
  近い高原地帯のカオバンに首都を置くタイオウ(西甌)王国の安陽王に何度か挑まれていたが常に斥けて
  いたので安心をしていたところを攻められ殺されてしまった。安陽王は文郎国に代わって自らが王になった。
  現在のハノイの近郊に甌駱(アウラック)国を建設、古螺(コロア)城を築いた。ここで南下する秦と対峙した。
  この城は外周8kmあり、当時としては非常に大きな城であった。現在も当時の城壁として僅かに土盛りとし
  て残っている。この近くから青銅製の矢じりが数千点出土しており、青銅器時代のドンソン文化の中にあっ
  たと想像される。ただ、甌駱国は紀元前257年から207年までのわずか約50年の短い存在でしかなかった。
  以降中国の支配が続く。

・南越国
  秦の始皇帝の死後清国の勢力は弱り、ベトナムへの支配力が弱まりました。そのような中、紀元前203年に
  中国が辺境の支配のために置いていた地方行政区である南海郡の支配者であったチョウ・タ(趙陀)が独立
  して現在の中国広州を首都とする南越国を建国し南越王を称した。紀元前207年には甌駱国を征服し、中国
  を統一した漢も介入する力もなく南越国を認めた。その後趙陀は南越武帝と称した。紀元前111年漢の武帝
  により滅ぼされ、ベトナムは漢の支配下に入った。

・ハイ・バー・チュン
  中国の支配に常に押さえられているベトナムでしたが、漢の時代にも税金を取られたり、人夫としてこき使わ
  れたりしていましたが、紀元40年にベトナムの豪族のティ・サックが漢の役人の首をはねる事件が発生した。
  このティ・サックの妻がチュン・チャック(徴側)で、彼女は妹のチュン・ニ(徴弐)とともに国内の民に漢への反
  乱を呼びかけ、反乱軍を結成しつぎつぎと漢の役員が守る城を攻め落とし、その数65と言われる。そうして
  現在のハノイの近くに都を構えた。チュンは自ら女王として迎えられた。しかし漢の皇帝は2万の軍をベトナ
  ムに差し向け、反乱軍も粘り強く抵抗したが43年ついに漢の前に破れ、チュンは川に身を投じ自ら命を絶っ
  た。以後ベトナムは漢の直接支配となった。結局チュンの女王は3年の短命ではあったが、ベトナム人の心
  には英雄としての称えが続き、現在も命日の2月6日にはハノイで盛大な祭りを行っている。各都市にはハイ
  バーチュン通りとして名を残しており、切手の図案にもなっている。なお、ハイはベトナム語で2を表し、バー
  は婦人を表しており、ハイ・バー・チュンとは「チュン姉妹」の意味である。

・ク・リエン(区憐)
  中部の現在のフエの近くの日南郡象林の出身で、137年(192年という説もある)漢に対し反乱を起こす。144
  年には漢と和睦し、ラムアップ(林邑)国=後のチャンバを樹立した。チャム人が主体の国であり、チャム王国
  始まりとされる。東アジアのインド文化の拠点として繁栄をした。

・チャンバ王国
  現在のフエに144年ク・リエンにより建国された林邑(ラムアップ)国がチャンバの始まりとされる。現在は少
  数民族になっているチャム族は、かつてはベトナム中部からメコンデルタを含む南部の広大な領域で海岸部
  を中心に活躍したインド文化を受け入れた国家である。というのは、建国当初は中国文化の影響を受けた
  が、扶南国の影響を受け、インド文明を受けるようになっていった。扶南はカンボジアに征服され、アンコー
  ル王朝が出来、チャンバ王国はしばしばアンコール朝とも交戦し、占領されることもあった。アンコールワット
  のレリーフにもチャンバ国との交戦の場面が描かれてもいる。インド文化を受け入れていたチャンバは煉瓦
  作りの建物を多く作り、ヒンドゥー寺院や仏教寺院を多く建設している。ヒンドゥー教のシヴァ神を崇拝し、チ
  ャム芸術の代表ともなるミーソン寺院は現在もチャンバ遺跡として特に有名である。チャンバはニャチャン、
  ファンランと都を遷しながら多くの寺院を建てており、現在も遺跡として点在する。
  当時北ベトナムは中国の支配下に有り、チャンバは中国領の北ベトナムと数回の交戦を行っており、8世紀
  には国号を一時環王国と改称したりもした。10世紀になると紅河流域にベトナム国が建国され、チャンバは
  しばしばベトナム国と戦いを行った。
  チャンバ人は航海術に優れており、海のシルクロードと言われる、中東から中国にかけての交易の拠点でも
  あり、大いに栄えもした。日本とも琉球王国を通じて交易があり、正倉院にある香木、蘭奢待(らんじゃたい)
  は9世紀にチャンバから持ち込まれたものといわれる。香木はチャンバの主要な交易品でもあった。13世紀
  にはフビライの攻撃を受けたがこれを撃退している。
  15世紀になるとベトナムの黎朝と戦い打撃を受けることになる。中部のクァンナム、クァンガイ、ビンディンを
  黎朝に併合され、南ベトナムへと後退させられた。1687年王国は滅び、南ベトナムの阮氏広南政権の従属
  地となり、1720年にはチャンバは消滅をした。その後チャム人はイスラム教を受け入れ、現在もベトナム南
  部やカンボジアの少数民族として貧しい生活を送っている。

・ブ・ナム(扶南)
  150年頃に南部のメコンデルタ地帯に設立された王国である。クメール人系の国でインド文化の影響を受け
  ている。伝説ではインド東部から船で辿りついた男がやってきて地の女性と結婚して作った国とされる。言
  葉もサンスクリット語が使われ、ヒンドゥー教が信仰された。高い文化を持ち、中東から西洋、中国と幅広い
  交易を行っていた。インドのクシャーン朝や中国の呉からも使節が来朝していたとされる。王は重層の楼閣
  に住み、象に乗って外出していた。民衆は高床の住居に住み、肥沃なメコン川デルタでの農耕生活を行っ
  ていた。繁栄がかえって征服の危険を増し、中国の分裂が貿易の減少になり、王位争いから国の衰退が始
  まり、550年頃にカンボジアの侵攻を受けて滅んだとされている。

・チュウ・アウ(趙嫗)
  ハイ・バ・チュンと並んで中国に反旗を翻した女性としてベトナムではバ・チュウとの呼び名で人気がある。若
  い夫人はチンチャウ(現在のタインホア)で兵を起こし漢に立ち向かった。しかし数ヶ月の戦いの後漢軍の前
 に破れ殺害された。漢の横暴な支配への反乱であり、女性が率いた最後の反乱でもあり、ベトナム人の心
  を打つところがあり、今もハノイの中心街にはその名を残すバ・チュウ通りがある。

・リ・ビ(李賁)
  地方の豪族で、中国の梁の支配に対し542年交州で反乱を起こす。祖先は中国人だとされていて、前漢の頃
  に乱を避けて中国をからベトナムに移住した。リ・ビは7代目で5世紀にわたりベトナムに住んでいたことでベ
  トナム人として扱われている。梁に仕えていたが、支配者層の圧制に我慢ならず辞して故郷に帰り、蜂起の
  準備をした。チュウ・クアン・フック(趨光復)がリ・ビの気概に感銘し兵を率いて配下になる。反乱に対して、
  時の交州勅使は恐れをなし戦うことなくリ・ビに金銀財宝を与え、中国に逃げ帰った。544年中国から独立し
  てベトナム史上初の帝号を称し、リー・ナム・デ(南越帝)とし、国号をヴァン・スアン(万春)とし、年号を天徳
  とした。
  帝は開国寺(現在西湖にある鎮国寺)を建立する。545年梁は大軍を率いてベトナムを攻め、帝は敗退した。
  その後病に倒れ、全権をチュウ・クアン・フックに譲り、548年没した。

・チュウ・ヴィエット・ボン(趨越王)
  南越帝から全権を委譲された趨光復は今までの南越帝とともに戦ってきた戦術を変え、ゲリラ戦法をとり、
  一万の兵を紅河近くの沼地、現在のハイフンに駐屯させ、そこから夜陰に乗じては梁軍に挑んだ。このよう
  にして常に戦況を常に優位に進め、548年梁で内乱が起こり、勢力が分散したのを機に、趨光復は総攻撃
  を行い、ロン・ビエン(龍編)を奪い取り独立を果たした。そうして自らをチュウ・ヴィエット・ボン(趨越王)を名
  乗った。しかし、南越帝の部下であったリ・ファト・トウ(李仏子)との間で内乱を起こしたが、和解をして自分
  の娘を李仏子の妻として差し出した。しかし結局は李仏子の裏切りにあい海辺まで逃げたが退路を絶たれ
  入水自殺をとげた。李仏子は602年に中国の隋の大軍に攻められ捕虜となり殺害され、又もベトナムは中国
  の支配下になった。

・マイ・トゥック・ロアン(梅叔鴬)
  梅叔鴬は現在のゲアン省の貧しい家の生まれであったが、長じて相撲で賞金を稼いだり、狩猟で稼いだりし
  て親を助けて育った。一説によると、当時中国の唐の悪政に民衆は苦しめられており、特に楊貴妃のために
  ライチを運ぶことは過酷な労役でもあった。722年 梅叔鴬も他のものと一緒にライチを運ぶ仕事につかされ
  た。仕事の最中に老人が喉の渇きからライチを食べたところ、唐の兵士に見つかり殺害された。これを見て
  梅叔鴬はこの兵士を殴り、皆に反乱を扇動し唐の軍を蹴散らした。これを機に反乱軍を組織し、トン・ビン
  (宋平:現在のハノイ)を占拠した。皆からはマイ・ハック・デ(梅黒帝)と呼ばれた。しかし、唐は大量の軍を派
  遣し結局 梅叔鴬は敗れて山に逃げ病に倒れ、反乱軍は崩壊した。

・阿倍仲麻呂
  奈良中期に遣唐使として19歳の時に吉備真備らとともに唐に渡る。上級子弟の最高教育機関である太学で
  学び、難関の科拳の試験に合格、唐の高等官として高い地位に昇進する。19年後に真備等は帰国したが、
  阿倍仲麻呂は玄宗皇帝の厚い信任もあり帰国を許されずに唐に留まる。名前を朝衡と改め、皇帝に仕える
  と共に李白や王維などと交わった。753年やっと帰国を許されその送別の宴で有名になった「天の原ふりさ
  けみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」の歌を詠む。しかし帰国の航路で暴風に遭い、ベトナム(安南)
  に漂着し、再び唐に戻らねばならなかった。再び玄宗皇帝に仕え従三品の高位にまで昇り、768年には安南
  の安南都護にも任命される。770年唐に入って54年、73歳で没し、唐の都長安に埋められる。従二品が贈ら
  れる。

・クック・トゥア・ヅ(曲承祐)
  曲承祐は現在のハイフォンに生まれる。905年唐が衰退し、安南都護府の機能が低下したのお狙い、トン・
  ビン(宋平:現在のハノイ)に攻め入り、自ら節度使を名乗り、勢力の落ちた唐もこれを認めざるをえなかっ
  た。唐に仕えながら実はベトナムの独立という実を取ったということです。907年曲承祐が没し、その子クッ
  ク・ハ・オ(曲景頁)が継いだが917年に亡くなり、その子のクック・トゥア・ミイ(曲承美)が継ぎ、後梁に願っ
  て節度使になった。923年後梁に代わって広東で建国した南漢が曲承美を襲い捕虜にして殺害した。

・ズオン・ディエン・ゲ(楊廷芸)
  クック・トゥア・ミイ(曲承美)の武将で931年南漢軍を攻撃し、トン・  ビン(宋平:現在のハノイ)を解放して自ら
  節度使となる。しかし、自軍の武将のキュウ・コン・ティエン(矯公羨)に937年殺害される。

・ゴ・クエン(呉権)
  897年豪族の子として現在のハノイの郊外に生まれる。幼少時より聡明で、南漢を破ったズオン・ディエン・ゲ
  (楊廷芸)の娘婿とし、楊廷芸の部下として働き、現在のタインホア省の統治を任されたこともある。楊廷芸
  が自軍の武将、キュウ・コン・ティエン(矯公羨)に殺されると、民衆が不満を唱え、これを恐れた矯公羨が南
  漢に援軍を依頼し、南漢軍は大船団で侵略を開始した。しかし呉権は各地の豪族の応援を得て、939年バ
  ク・ダン(自藤)江に満潮時に隠れるように杭を打ち、満潮時に退却するかのごとく南漢の船団を誘い込み、
  潮が引き始めた時に一気に攻撃し、南漢軍の船は杭に突き刺さり見事計略に成功して打ち破った。これを
  機にゴ・クエンが王を名乗り、首都をコ・ロア(古螺:現在のハノイ)に置き、中国の支配から独立した。944年
  死去。呉朝はベトナム史上の最初の独立王国として939年〜967年の間存在した。

・十二使君時代
  ベトナム最初と言われる王朝、ゴ・クエン(呉権)王朝は今まで支配されてきた中国の王朝とは異質のものと
  されてきたが、王とはいってもその権力は浅く、どちらかと言うと中国に対抗する土豪達の連合的要素が濃
  いものでもあった。そのため呉権の死後はたちまちに呉朝は実権を握る者がないまま形骸化し、呉権の息
  子達をはじめ12人の土豪たちの離合集散による権力争いの時代となった。したがいベトナム史ではこの数
  年を十二使君時代と称して国を纏めるだけの実力者が出なかった時代としている。

・ディン・ボ・リン(丁部領)
  ベトナムのディン(丁)王朝の創始者。呉権の死後実権を握る者が出ないまま、土地の豪族12人が互いに対
  抗する十二使君の時代が続いたが、その中で頭角を現したのがディン・ボ・リン(丁部領)であった。彼は十
  二使君の中にいたのではなく、十二使君の1人の部下であった。彼には多くの農民の支持があり、十二使君
  を差し置いて瞬く間にベトナムを統一し、国家体制を引くことに成功した。中国からは全く離れた形でのベト
  ナム統一を形成した。強力な指導力を兼ね備え、都をホアウルとし、国号をダイ・コ・ヴィェト(大瞿越=大越
  国の意味)とした。また初めて元号を建て、タイ・ピン(太平)とした。また中国の宋には朝貢し交趾郡王に命
  じられた。しかし間もなく朝廷内での権力争いが起こり丁部領は息子と共に暗殺される。強力な指導者をな
くし弱体化した丁朝に宋が侵攻しあえなく丁朝は979年滅びる。

・レ・ホアン(黎桓)
  ベトナム前黎朝の創始者。丁部領が没後、摂政として実権を握る。中国の宋の軍隊が侵攻してくると聞き、
  周囲から帝王への就任を推挙される。通称をダイ・ハン(大行)皇帝と呼ばれた。宋が海陸2方面から侵攻し
  てきたが、レ・ホアンはバクダン江で宋の水軍を撃破し、チ・ラン(支稜)関で陸軍を破り、ベトナムの独立を
  守った。また、チャンバ国を占領しチャンバの中心は南方に移り、ベトナムに朝貢するようになり、ベトナム
  の統一を果たす。宋はレ・ホアンを安南都護に任命をした。ただ、没後王位継承を巡る内乱で前黎朝は三
  代で滅亡し、李朝に代わる。

李 朝 時 代

・李朝時代
  1009年〜1225年までベトナムを支配したベトナム始まって以来の長期王朝で、首都は昇龍で現在のハノイで
  ある。創始者は前黎朝の将軍リ・コウ・ウァン(李公蘊)が軍権を掌握して黎朝を倒して帝位:リ・タイ・ト(李太
  祖)についた。1054年に国号をダイ・ヴィェト(大越)国とした。これまで常に中国の支配下にあったが、李朝
  になり中国の宋朝が財政難から、これを立て直すためにベトナム侵攻を画策していたが、機先を制した李朝
  がリ・トン・キェト(李常傑)に命じて宋に侵攻した。宋軍も負けてはいず反攻し李軍を後退させ、一進一退と
  なり、遂には和睦の道を取り、国境の設定を行った。また、李朝は中国のシステムを色々と取り入れ、国家
  の充実に努めた。1070年には文廟を設立、1075年には科挙の制度を導入し国家の安定を図った。仏教を
  導入し、文学や芸術の普及にも努め、一柱寺はこの時代の設立です。国益の強化を図るためにチャンバに
  三度遠征を行いその一部を奪ったり、南洋諸国との交易を行うことで繁栄をした。しかし時代が進むうちに
  国民への賦役や重税を課すことで求心力がなくなり、農民の反乱に遭い、急速に衰退し、遂には政権を陳
  一族に譲る羽目になった。

・リ・コン・ウァン(李公蘊)
  李王朝の創設者で1009年、軍権を掌握して黎朝を倒して帝王となり、リ・タイ・ト(李太祖)となる。即位の翌
  年、1010年に都をタン・ロン(昇龍:現在のハノイ)に移し、年号をトア・ティエン(順天)とした。税制や徴兵制
  度を制定して李朝政権の基礎を築く。

・文廟
  李王朝の時代、1070年にタン・ロンに建立された孔子を祀る廟です。現在のハノイにあり、ホーチミン廟の近
  くにあります。1076年にベトナム最古の大学がここに開設され、高官の子弟達に対して役人になるための養
  成所としての機能を果たした。科挙試験の合格のために四書五経などの儒教の経典を暗記することを中心
  に学問を学んだ。現在も亀の背に合格者の名前を刻んだ碑が見られる。

・科挙制度
  科挙とは中国で隋の時代から清の時代まで行われた官僚の登用試験です。基本的には身分には関係なく
  受験が許され、学識が認められると官僚に採用された。試験の競争率は非常に厳しいものがあった。ベト
  ナムではこれに見習って李朝の時代に採用され、主に高官の子弟達が大学で勉強して受験をした。試験は
  儒教の教えを徹底的に勉強を行ったものに課せられ、この試験に合格するために儒教の経典を丸暗記す
  ることに必死であったとされる。この科挙制度は朝鮮にも伝わったが、日本には受け入れられなかった。中
  国の制度を総ては受け入れないとするしせいであったものと推察する。ただ、現在の公務員試験にもこの
  科挙試験の影響があるものと個人的には思うのであるが・・・・

・リ・トン・キェト(李常傑)
  李朝時代の将軍。李朝の重臣の家系の出身であり、幼少の頃から李朝2代目太宗に仕えた。太宗の死後未
  だ幼かった4代目のリ・ニャン・トン(李仁宗)を助けて、政治・軍事の実権を握っており、文武両面に優れ、宮
  廷内の厚い信頼を得ていた。中国の宋軍がベトナムを攻めると聞くと、先手を打って10万の軍を宋に侵攻さ
  せて宋軍を破り勝利した。宋軍はチャンバ国やカンボジア軍と協力して李常傑の軍を攻め、タンロンまで攻
  め入ったが首都攻防戦で宋軍に打撃を与え国境近くに追いやった。李常傑は宋に和議の使者を送り、1096
  年和議を成立させ、再びベトナムは独立の道を歩んだ。李常傑は70歳で没したが、彼の功績を称えて国交
  の位を与えられている。今もベトナム救国の英雄の1人として称えられている。

・陳朝時代
  李朝の後12代続いた王朝。実質的な創始者は陳守度で、李朝の最後の王恵宗の外戚を利用して、策略し
  て李朝より王朝を奪い取り、新たに陳朝とした。陳守度は自らは王とならず初代の王は自分の甥の太宗を
  あてる。以後12代まで陳朝が続く。太宗の時代は陳朝の草創期で、科挙の実施による有能人材の登用等
  で諸制度の改革や整備を行うことで国家の体制を整えていった。常に一族中心の政治を心掛けていた。こ
  れは自分達陳一族が取ってきた行為を反面教師としているかのごとくでもある。ただ、9代の芸宗の時代に
  なるとこの一族中心の政治に不満を持つ家臣や官僚の離反がみられ、さらにはチャンバの侵攻もあり陳朝
  は衰えを見せ始める。混乱の中芸宗の外戚である胡氏が実権を握りだし、1400年最後の国王少帝が胡氏
  により王位を奪われて陳朝は消滅する。

・チャン・トゥ・ド(陳守度)
  陳朝の実質的な創始者で、陳朝初代国王である太宗の叔父。李朝8代の恵宗の皇后は陳氏の出であり、
  陳守度はその外戚として勢力を増した。恵宗は国政を殆ど家臣に任せ、文武にも省みず、1124年陳守度は
  皇后と計り恵宗にその7歳の娘:李昭皇に譲位させその実権を握る。翌年自分の甥を李昭皇と結婚させ、王
  位を陳氏のものにした。恵宗は自殺をし、李昭皇以外の李一族を自分の軍隊で殺害をした。陳守度自体は
  世間の非難を恐れて王位にはつかず、太師として実権を握った。陳王朝の創始者ともいえるが現在での評
  価は「人の道に外れた大悪人」として評価は悪い。

・チャン・タイ・トン(陳太帝)
  陳朝初代の王で、陳朝の実質的創始者の陳守度の甥で、1225〜1258年まで在位。叔父の陳守度による李
  朝への策略から8歳にて李朝の李昭皇と結婚し、王位についた。成人して親政を開始し、科挙による人材登
  用など土台を固めた。1257年にはモンゴルの侵攻を撃破し、1258年子の聖宗に譲位したが、実権は握り続
  けた。

・国子監
  中国の隋以後歴代の教育機関であり隋の時代は国子寺と言ったが、唐の時代に国子監と改められた。ベト
  ナムでも文廟内に陳太帝が最初に国子監建立した。官吏養成機関であり、全国の儒学者を集めて四書五
  経を講じさせた。国子学・太学・四門学・律学・書学・算学がある。入学を許されるのは家柄による。

・フビライ汗
  元の世祖、初代皇帝でジンギス汗の孫。兄のモンケ汗が即位すると中国攻略の任を受け、四川から雲南、
  大理国までを併合した。モンケ汗が病死後汗位継承争いに勝ち、都を燕京に移し、大都とし、国号を元とし
  た。即位間もなく宋に軍を出し勝利し、中国の統一を果たす。宋を攻めるに当たりベトナムから宋の南を攻
  めることを考え、ベトナム通過の許可を得ようとしたが、ベトナムはこれを拒否し、陳の侵攻を試み一時タン
  ロンを占拠するも、暑さと食糧不足から退散した。この後もベトナムへの来襲は2回あったが何れも敗退。更
  には高麗を従属させ、そこから二回にわたる日本侵攻を試みるも失敗。1294年没する。

・大越史記
  ベトナム最初のベトナム史記で、陳太帝の命により1272年レ・ヴァン・フウ(黎文休)により完成した30巻から
  なる史書。後に編纂される「大越史記全書」の原型とされるが、現存しない。

・チャン・フン・ダオ(陳興道)
  ベトナムの民族的英雄である。陳朝の武将で、初代国王:太宗の兄の息子。興道という名は功績を称えて後
  に与えられた名前で、本名はチャン・クォック・トアン(陳国俊)という。1257年モンゴル軍の侵攻があり首都タ
  ンロンを占拠されるが、補給手段を絶つことで暑さと食糧難から退却させた。元朝を建立したフビライ汗は
  1284年再度ベトナムを攻撃するが、この時も陳興道はゲリラ戦を挑み元軍を退けた。1287年には3度目の
  元の侵攻があったが、今度は船で攻めてきた。陳興道は呉権の時のバクダン江の作戦を利用し、バクダン
  江に干潮時に杭を打ち、満潮時に元軍を誘き寄せ、干潮近くに小さな船で元軍を攻め立て、後退する元軍
  を見事杭で動けない状態にしてこれを討った。この功績により陳興道は王号を与えられ、ベトナム民衆は彼
  を救国の英雄と称え、陳興道を祀る廟を立てている。現在も彼の功績は称えられ、各地にはその名前を残
  す大通りが見られる。また、後のフランスとの戦いやベトナム戦争でもその戦い方に陳興道の戦法を大いに
  参考とし、精神的なバックボーンとなったと思われる。

・チャン・ニヤン・トン(陳仁宗)
  陳朝3代目の王。元の2回目のベトナム侵攻で一時は敗退してタインホア(清化)へ逃げる。元に降伏を考え
  たが、陳興道が「戦わずして降伏するくらいなら、私の首を差し出せ」と迫り、結局元に徹底抗戦を行い、陳
  興道のゲリラ戦術で元軍を翻弄し敗退へと追いやった。王位を譲位した後竹林禅院へ入る。

・レ・クイ・リ(黎季犂)
  陳朝の9代王:芸宗の外戚。芸宗が悪政を繰り返し、また元に勝った後に国家が疲弊しており、飢餓が起こ
  ったりもしていた。この頃からレ・クイ・リ(黎季犂)が陳朝内で権力を握るようになった。11代王:陳順宗に自
  分の娘を嫁がせ、その地位を固め、1397年陳朝の実権を完全に握り、首都もタインホア(清化)に移した。
  1400年には自らを帝と称し、国号をダイ・グゥ(大虞)とし、自分の名前をホ・クイ・リ(胡季犂)とし、ここに陳
  朝が壊滅し胡朝が誕生することとなった。即位後1年を経ずに王を実子ホ・ハン・トゥオン(胡漢蒼)に譲位
  し、自分は太上皇を称し実権は維持した。しかし、陳朝を支持していた民衆が胡朝に逆らい国は内乱状態に
  あった。そんな時、機を見ていた中国の明軍がベトナムを攻撃し、胡親子は捕らわれて処刑された。1406年
  あえなく胡朝は短い王朝を閉じることになった。

・チュ・ノム(字喃)
  ベトナムには固有の文字がなく、長い間漢字が使用されてきた。門族意識に目覚めだした12世紀頃に漢字
  を基に固有の文字チュノムが作られた。声調が6つの言葉を表記するために、意味や音の似た感じを編と旁
  とに組み合わせて作られた文字である。即ち話し言葉をそのまま文字にしたものである。漢字が支配層、知
  識階層が使用していたのに対し民衆の文字としてチュノムが作られたが、結局は漢字を知らないと使えない
  文字でもあった。17世紀以降にはローマ字化した文字、クォック・グウの普及が推し進められ、チュノムは漢
  字とともにベトナム人から忘れ去られてしまった。

・ジャン・ディン(簡定)帝
   1404年 陳朝9代の芸宗の次子で、明軍により制定されたベトナムから再度独立すべく軍を集結させ、簡定
  帝を名乗り明に対し反旗を翻す。陳朝に対して後陳朝とする。一時はデルタ地帯にまで進出するも内紛によ
  り分裂する。明に対する抵抗は重光帝に引き継がれるも、簡定帝は捕虜となり南京に護送され殺害される。
  重光帝はラオに逃げるも捕まり護送中に死亡。1413年ここに後陳朝はあえなく短命で閉じる。

・レ・ロイ(黎利)
  後陳朝を破りベトナムを支配していた明軍を破って再び中国からの独立をなし、黎朝(前黎朝に対して後黎
  朝ともいう)をたてた人物。1385年中部、タインホア(清化)のラム・ソン(藍山)で生まれる。1418年ラム・ソン
  で明軍に対して挙兵する。当初は山岳地帯で困難な戦いを強いられていたが、各地の反明勢力を結集して
  1426年明軍を撃破し首都に迫る。1427年明の援軍がやってくるがこれを破り、明軍は和睦を願い帰還する。
  1428年黎朝を建て、即位しレ・タイ・ト(黎太祖)となる。首都をトン・キン(東京)とし、国号をダイ・ヴィエット
  (大越)とした。陳朝末期の混乱や、属明期の戦乱での疲弊した社会の建て直しとして、全国を五道にわけ、
  科挙制度を充実し、戦争中に無主になった土地を公田とする均田制を実施し、中央集権的国家の建立に尽
  くす。1433年没す。

黎 朝 時 代

・黎朝時代
  1428〜1527年の間100年続いた王朝で初代王はレ・ロイ(黎利)のレ・タオ・ト(黎太祖)である。レ・ホアン(黎
  桓)の時の王朝を前黎朝とし、この時を後黎朝とするのが一般的な名称である。後黎朝には前期と後期に分
  かれるのが一般的な史実でもある。即ち、明の後退により1428年に王朝が誕生してから1527年にマック・ダ
  ン・ズン(莫登庸)により黎朝が一旦滅ばせられマック・ダン・ズンが国王になるまでを前期とし、1532年黎朝
  の子孫が再びたってマック・ダン・ズンと対立する動乱時代を後期黎朝と称し、1789年レ・チュウ・トン(黎昭
  統)帝が明に逃げ出すまでの間である。

・大越史記続編
  黎朝の時代、1455年黎太祖の次子レ・ニャン・トン(黎仁宗)の命令によりファン・フウ・ティエン(藩孚先)が
  「大越史記」に追加する形で、陳朝から属明期までの期間を採録した10巻からなる「大越史記続編」を編纂し
  た。

・レ・タイン・トン(黎聖宗)
  黎朝5代の王で、レ・タイン・トンの治世はベトナム律令体制の完成した時期であり、黎朝の最盛期とも言わ
  れる。これまでの宰相制度を廃止し、官僚、地方行政、軍政の改革を行い、科挙制度の確立を図った。土地
  を国家が所有する公田と個人が所有する私田との分け、公田を農民に耕作させる土地制度を作った。戸籍
  制度を確立し、3年に1度の戸籍調査を実施した。また、唐の法律とベトナム固有の法律を融合させた洪徳
  律令を公布した。チャンバを侵攻しチャンバ国の王都ヴィジャヤを占領し、中部地方を制圧し、メコンデルタ
  地域にまで勢力を伸ばし、チャンバの勢力を衰退させた。

・大越史記全集
  ベトナム漢文史料での基本史料であり、編年体で「大越史記」「大越史記続編」とその内容を改定しながら記
  録を足してゆく編集方法がとられてきた。レ・タイン・トン(黎聖宗)の時、1479年に史官のゴ・シ・リエン(呉士
  連)が上記二つの史記に、中国とベトナムの史記を参考にしながら校訂、加筆を行い「大越史記全集」として
  15巻に完成しレ・タイン・トンに献上した。ベトナムの草創期からレ・タイ・ト(黎太宗)の即位までがカバーされ
  ている。

莫 朝 時 代

・莫朝時代
  1527年〜1592年の間分裂期のベトナムで北方を支配した王朝で、黎朝の重臣であったマック・ダン・ズン(莫登
  庸)により前期黎朝を滅ぼして興された。1592年鄭氏により滅ぼされる。ベトナム全体を統一する王朝ではなく、こ
  の期は動乱の時代でもあった。

・マック・ダン・ズン(莫登庸)
  黎朝の1527年、権臣の間で権力争うが起こり、軍の指揮権であったのがマック・ダン・ズン(莫登庸)であった
  が、彼が帝位を奪い即位をした。これによりレ・ロイ以来100年続いた黎朝は滅亡し、代わって莫朝(1527〜
  1592年)が成立する。一方、莫登庸に反攻し黎朝の復活を計る旧臣勢力のリーダーであったグェン・キム
  (阮淦)はラオスに逃れる。そこで中国の明に莫登庸の帝位を奪うことを訴えたが、逆に明は莫朝を承認し
  た。

・グェン・キム(阮淦)
  黎朝の重臣であったが、権力争いの間にマック・ダン・ズン(莫登庸)が王位を奪い黎朝が滅びてしまう。この
  時阮淦は哀牢(現在のラオス)に逃れ哀牢王の支援を得て、1533年黎朝の子孫である荘家を奉じて帝、レ・
  チャン・トン(黎荘宗)として黎朝を再興し、元和と改元し、莫朝に反抗する。この後莫朝との抗争は半世紀に
  も及ぶ。この期を後期黎朝(1532〜1789年)と言えるが、何れにしても動乱の時代であり定かな王朝ではな
  かった。1545年降伏してきた莫軍の将軍に裏切られ毒を盛られて死亡する。黎朝の実験を握った女婿のチ
  ン・キエム(鄭検)が実権を握ることになる。

・チン・キエム(鄭検)
  グェン・キム(阮淦)の部下であり、功を重ねることで重用され、グェン・キムの娘婿として迎えられる。グェン・
  キムが毒殺されると実権を握り、太師となり勢力は阮氏を超えるまでになる。グェン・キムの子のグェン・ホア
  ン(阮漬)はチン・キエムとの勢力争いを避ける形でフエ(順化)に移る。チン・キエムは大将軍となり莫氏を
  撃破して北方に追いやる。

・チン・トゥン(鄭松)
  鄭検の子で1592年、タンロン(ハノイ)城を莫軍より奪回し王府を開く。以降鄭氏が実権を担っていく。ただ、
  莫氏も明の国境近くの高平に本拠を置き、明の後援を受けながら地方政権として存続していく。南部(中部)
  では阮氏が勢力を維持しており、北部の鄭氏との間で南北対立の構図が続く。

・QUOC NGU(クォック・グー:国語)
  現在のベトナム語で、その元となったのはフランスの宣教師のアレキサンドル・ロードがそれまで使用されて
  いた漢字をアルファベットで綴り、同時に声調、並びに発音記号をアルファベットに付けて記した。まず最初
  に広めたのはフランスの直轄地であった南部コーチシナであり、その後北部、中部へと拡がった。

・タイソン(西山)の乱
  1771年、南部ビンディンのタイ・ソン(西山)で阮氏の圧政と物価高騰の不満から3兄弟、グェン・ヴァン・ニャ
  ック(阮文岳)、グェン・ヴァン・ルゥ(阮文侶)グェン・ヴァン・フエ(阮文恵)が蜂起する。中部、コーチシナと制
  圧し、阮氏を追放し、北上して鄭氏を討ち、1786年タンロンに入り、南北を統一し西山朝を興す。

・西山朝
  1786〜1802年の間一時成立した短期の王朝です。それまで北に鄭氏、南に阮氏がそれぞれ勢力を保って
  いたが、南部のタイ・ソン(西山)で阮氏の圧政と物価高騰に苦しんだ末に3兄弟の反乱が起こり、これが西
  山の乱である。3兄弟が鄭氏、阮氏をそれぞれ破り、ベトナムを平定し、三分割して文岳が中央皇帝を称し、
  文侶は南部で東定王を、文恵は北部で北平王を称した。しかし次第に兄弟間の確執が生じて修復不可能な
  状態に陥り、文恵、文岳の相次ぐ死亡もあり、次第に衰えその活動が終わる。

・グェン・フック・アイン(阮福映)
  ベトナム最後の王朝である阮王朝(1802〜1945年)の開祖である。タイソンの乱により中部に勢力を持っていた
  阮が駆逐され、阮氏で1人難を逃れてコーチシナに逃げる。やがてフランス人宣教師ダドランなどの援助を受け
  タイソンを滅ぼし、1802年ベトナム全土を統一する。

・ヴェルサイユ条約
  阮福映がフランスの宣教師アドランの仲介でルイ16世と交わした条約で、ダナン、プロ・コンドールをフランス
  に譲渡する代わりに、ベトナムに軍事援助を得る。

・レ・チュウ・トン(黎昭統)帝
  後期黎朝最後の王。中国の清軍に応援を依頼し、清国軍が20万人の兵をタンロンに進駐させたが、タイ・ソ
  ン(西山)の3兄弟の1人、グェン・ヴァン・フエ(阮文恵)により撃破され、清国軍は逃げ帰り、レ・チュウ・トン
  も後を追い清国に逃げ、後期黎朝は終わる。

阮 朝 時 代

・阮朝時代
  ベトナム最後の王朝で,1802〜1945年続いた。グェン・フック・アイン(阮福映)が開祖である。グェン・フック・
  アインは即位して、年号を嘉隆として、1804年には宗主国の清から国号をヴィエトナム(越南)と命名され、フ
  エに都を置きその後13代に渡り王朝が続いた。1815年清の律令に倣い、嘉隆律令が制定され、中国的な
  制度が導入された。2代目のミン・マン(明命)帝の時代には清にならい中央集権化が推進され、科挙制度や
  省区分の地方制度が整備されていった。このように中国文化、とりわけ儒教に傾倒しだした。嘉隆帝の時代
  には阮朝設立に貢献の大きかったフランス人を顧問として迎え厚遇したが、明命帝になると極端な排外政
  策でフランスとの関係も除外しだし、フランス人の国外退去を命じ、キリスト教を禁じたこともあり、その後の
  帝も皆反フランス政策を取ったこともあり、19世紀後半からはフランスの侵略を受け多くの領土の割譲を行
  い、やがて阮朝自体がフランスの保護領となり阮朝が終わる。

・ミン・マン(明命)帝
  阮朝2代目の王。在位は1820〜1841年。阮朝の最盛期ともいえる時代に生きた。明命帝は国力の増強を図
  る一方、国史館を建てて文芸を盛んにし、中国や西洋諸国の情報の収集を図り、技術の移転を進めた。清
  にならい中央集権化が推進され、科挙制度や省区分の地方制度が整備されていった。このように中国文
  化、とりわけ儒教に傾倒しだした。また、タイ、カンボジア、ラオスとの外交を積極的に進め、兵を派遣するこ
  とも何度かあった。1841年にはカンボジアを併合している。折りしもフランスがインドシナ半島に勢力を伸ばし
  ており、父嘉隆帝の時代にはフランスの力を借りておりフランス人を厚遇したが、明命帝の時代になるとフラ
  ンスの再三の通商条約の締結や宣教師の保護の申し入れに対し、これを拒み、極端な排外政策をとる。キ
  リスト教を禁じ、各地の港に要塞を築くなどの政策をとり、対仏関係が急速に悪化していった。

・トゥ・ドゥック(嗣徳)帝
  阮朝4代目の王。在位は1847〜1883年と阮朝君主の中で最長の35年に渡って君臨した。詩人であり、哲学
  を好んだが、統治能力には欠けていたとも言われている。フランスとの間は益々厳しいものとなっていた。
  1858年、フランスは開国を迫り、ダナン以下の要塞を攻撃し占領。次いで1859年サイゴンを占領した。1862
  年にはコーチシナの3省を割譲、カトリックの布教、各港での通商を力ずくで認めさせせる条約に調印した。
  1867年にはフランスはメコンデルタの南半分を占領し、1882年にはハノイを陥れている。その後フランスによ
  るベトナムの保護国化を嫌った清の介入もあり、嗣徳帝の崩御で政局は混迷化していった。嗣徳帝は嫡子
  がいなかったことで厭世的になっていき、隠居して詩を詠む仙境の世界を築くべく稜を整えた。

・第1次サイゴン条約
  フランスが阮朝との間で結んだ条約で、コーチシナの半分に当たる東側の3省(チャウドック、ヴィンロン、ハ
  ティエン)とコンロン島のフランスへの  割譲、並びに3つの港の開港、ベトナムでのキリスト教の布教活動を
  認める条約。

・グェン・チ・フォン(阮知方)
  フランスのコーチシナ総督デュプレーはフランス側の求める紅河通行権獲得のため、1873年海軍大尉フラ
  ンシス ガルニエを交渉のため派遣した。この交渉に当たったベトナム側の代表は欽命大臣のグェン・チ・フ
  ォン(阮知方)であった。かれはフランス側の要求を拒否した。フランス側はこれ以上の交渉は出来ないとし
  て、同年ハノイを攻撃して占領してしまった。これに怒ったグェン・チ・フォンは断食を行いやがて憤死してしま
  った。

・第2次サイゴン条約
  フランスのベトナムへの無理強いが続くなか、宗主国の清国の黒旗軍がハノイに進駐し、フランス軍を撃破
  する。フランスは敗北により植民地政策に消極的となり、本国から善後策として、フランス軍のトンキンから
  の撤退を命じ、フィラストルをベトナムに派遣してフェ政府と和平交渉に当たらせた。1874年、この交渉でフ
  ランスはベトナム北部の武力侵略を放棄する代わりに、紅河航行権と主要都市での駐在権を獲得、コーチ
  シナの6省の割譲を獲得することでの調印を行った。この条約を第2次サイゴン条約と称する。

・第1次フエ条約
  清国の侵入を排除しようとしたフランス軍は逆に清の黒旗軍にフランスの将軍リヴィエールが殺され、時のフ
  ランスのジュール フェリー内閣は強硬方針を採り、1883年清国との間で前年に結んだベトナムの独立承認
  を破棄して陸海軍を増派した。フエに迫ったフランスの勢いにフエの阮朝は恐れをなし同年フランスとの間に
  結んだ条約を第1次フエ条約という。これは、北部のトンキン、中部のアンナムをフランスの保護領とし、ベト
  ナムが清国の駆逐を認めるものであった。

・第2次フエ条約:パトノートル条約
  このころフエ王朝では主戦派が政権を握り、清朝でも西太后が主戦派を登用してトンキンに派兵した。しかし
  フランスのフェリー内閣は強硬方針を貫き、紅河デルタ地域を占領し、清国との交渉も退け、結局フランスと
  清は1884年天津協約を結び、清軍のベトナムからの撤退と第1次フエ条約の承認を約束させた。その翌月
  フランスはベトナムがフランスの保護国となり、フランス総督は外交でベトナムの代表とし、ベトナム官吏がフ
  ランス指揮下に入ることを認めた条約第2次フエ条約(パトノートル条約)を結んだ。

・天津条約
  1884年フランスと清国は天津協約により一旦は和解したかに見えたが、お互いに不満が残り、この年の6月
  にトンキンで武力衝突が発生。フランスが最後通牒を出し、台湾の基隆を攻撃、福建をせめて艦隊を全滅さ
  せた。清も宣戦を布告し両者一進一退の戦いとなった。フランスは海軍、陸軍がそれぞれ有利に戦いを進
  めたが、1885年に入ると清軍も巻き返し、ベトナムの義勇軍も加わり各地でフランス軍を破り、3月末にはフ
  ランスのフェリー内閣が倒れた。ここで英国が調停に乗り出し、英国代表とフランス代表がパリ覚書に調印
  し、これに基づき6月に天津で清国代表李鴻章とフランス公使パトノートルが修好通商条約を締結し戦争の
  締結を果たした。この条約を天津条約という。条約の主要内容は@清国はベトナムをフランスの保護国であ
  ることを認めること。 A清国はラオカイとランソン以北に通商港を開く。 B清国が鉄道を建設する時には
  フランスの業者との商談を行うこと。 Cフランスは基隆と澎湖島から撤退する。 等であった。これによりフ
  ランスはインドシナでの植民地を確立し、中国南部での通商、鉄道の権利を得、フランス帝国主義へと踏み
  出した。さらに清国の宗主権が破れたことにより、列強国のビルマや朝鮮などへの侵略に繋がっていった。

・インドシナ総督府
  フランスがインドシナ3国を仏領インドシナ連邦として支配した時代に、本国の統治権限を代行した最高機関
  である。フランスが1859年サイゴンを占領し、1862年には南部6省の内東3省を占領しコーチシナに割譲させ
  た。1863年にはカンボジアを保護国とし、1867年にはベトナム南部の西3省をコーチシナに併合した。1883
  年には第1次フエ条約で中部のアンナムと北部のトンキンを保護領とした。そうして1887年管轄権の統一を
  目的に上記のカンボジア、コーチシナ、アンナム、トンキンの4地域を仏領インドシナ連邦として統合し、サイ
  ゴンに総督府を置いて連邦行政の統括を行った。後に(1902年)総督府はハノイに移されている。

・フランス極東学院
  1898年仏領インドシナ総督のポール ドゥメールによりサイゴンに設立されたインドシナ考古調査団が1900年
  フランス極東学院に改称、1901年にハノイに移された。インドシナ総督府の直属機関としての権限を有した。
  図書館と博物館としての機能を持つ。その後にはアンコールワットの修復保全の事業も有していた。後にフ
  ランスがインドシナから離れ、カンボジアの混乱でアンコールワットからも離れた。現在はフランスの教育省
  の監督下で科学的、文化的、専門的な公共機関としてアジアの諸文明研究を行っている。

・ファン・ポイ・チャウ(藩佩珠)
  ベトナムの民族主義者で、1867〜1940年。儒者の家に生まれ、フランスの植民地支配に抵抗し、敗北を少
  年期に見て育つ。1900年科挙試験に合格し、反フランスの政治活動に入り、1904年に皇族のクオンデ候を
  会長にしたベトナム最初の民族主義政党維新会を結成する。1905年、日本へ渡りベトナムの窮状を訴え、
  武器援助を求める。大隈重信や犬養毅に会うが、日本政府が武器援助することはなく、武器よりも革命には
  人材の養成が先決であることを諭され、運動の象徴であるベトナムの皇族であるクォンデ候を日本へ連れて
  くるよう促される。日本を理解するにつれベトナムの民衆との差に愕然とし、「ベトナム亡国史」「遊学を勧む
  る文」、「海外血書」などを次々と書き上げてベトナムに送り、ベトナム青年を日本に留学させる東遊運動を
  提唱、多くの青年を留学させる。しかしフランス政府の介入もあり日本政府はこの運動を弾圧することにな
  り、日本を離れてシャム、中国と渡るが、1925年フランス官憲に捕まり、フェで監禁される。結局儒教教育を
  受けながら、反フランス組織のために近代思想を受容しつつ、ベトナムの新しい社会原理を模索した思想
  は、後年のベトナム民族主義のあり方を示すものでもあった。
  なお、日本では浅羽佐喜太郎氏が私財を投げ打ち支援している。現在静岡県の袋井市に石碑がある。これは
  1909年に国外追放となったファン・ボイ・チャウが、外務大臣小村寿太郎に痛烈な意見書を送付し、公式的に
  は二度と日本には足を踏み入れなかったされるが、実は1917年密かに来日して建立したとされる。なお、浅羽
  氏はチャウが追放された翌年、43歳で死去している。

・クオンデ侯
  ベトナムがフランス植民地化されたのを嫌って抗仏に立ち上がったファン・ボイ・チャウ(藩佩珠)が興した維
  新会の会長として推挙される。クオンデ候は阮朝を樹立した嘉隆帝の長子であり、由緒ある阮家血筋を引
  く者としてベトナム復興のシンボルとして担ぎ出されたと言える。1906年日本に来る。1909年ファン・ボイ・
  チャウと共に日本政府により国外退去させられた。しかし犬飼 毅の援助もあり、再度日本にやってくるも、結局
  は日仏軍事条約などが災いし、志かなわず1951年東京杉並区の貸家で孤独のうちに死亡した。

・ドン・ズン(東遊)運動
  19世紀、ベトナムを始めとするアジア諸国は西欧列強国の侵犯を受け、植民地化していった。ベトナムでは
  フランス統治政府の圧制に苦しんでいた。こんなとき日本が1905年に日露戦争に勝利をしたことはベトナム
  革命組織である維新会のファン・ボイ・チャウ(藩佩珠)の驚きでもあった。彼は日本に密航してベトナムの窮
  状を訴え、武器援助を申込んだ。しかし、当時の日本在野の政党リーダーでもあった大隈重信や犬養毅に
  会い、革命は武器でなく人材の育成が寛容との諭しに合い、また日本の国情がベトナムとのそれに余りに
  も違うことに驚き、ベトナム青年達にその実情を報告し、多くの留学生を日本に招きいれ、最盛期の1908年
  には200人以上のベトナム青年が日本で学んだという。このような運動をドン・ズン(東遊)運動と称し、ベト
  ナム本国では維新会が中心になり、宣伝や資金集め、留学生送出しを担当していた。しかし、やがてフラン
  ス統治政府はこの動きに危機感を抱き始め、留学生の親族や支援者の摘発に乗り出し、日仏同盟を結ん
  だ日本はフランスの要請からこの運動を止めさせるために、1908年留学生の解散を命じ、多くの留学生が
  日本を離れることになり、残った者も資金がなくなり生活に困窮するようになった。更に、1909年ファン・ボイ・
  チャウが国外退去を命じられ運動の終焉を迎えた。

・東京義塾
 人材の育成が大事との日本での教えを受け、ベトナムでも人材の育成機関を作ろうと1907年にファン・ボイ・
  チャウ(藩佩珠)の呼びかけでハノイに「東京義塾」を作りました。東京義塾の目的は新時代の人材の育成で
  あり、ヨーロッパを経由して入ってくる科学や、伝統文化と民族の文化遺産、文学、歴史、地理、算術、生
  物、などの教育を行った。文字はクォック・グーを用いた。東京義塾は単なる学校ではなく、単に勉強するだ
  けではなく、革命運動に積極的役割が果たせるよう進歩的な考えが出来るよう独立運動の思想家からの
  講義も取り入れていた。また、費用は総てを寄付でまかない、学費の徴収は行わなかった。日本の教育を取
  り入れるということでは、福沢諭吉の慶応義塾が大いに参考とされていたと思われる。名前の由来もそこに
  あるのだろう。東京義塾の影響力を心配したインドシナ総督府は1908年東京義塾の閉鎖を命じ、その責任
  者の逮捕に踏み切った。

・グェン・タッ・タン
  後の名、ホーチミンの本名。1890年5月19日北部のゲアン省の儒者の家に生まれた。1911年21歳でヨーロッ
  パに渡る。ヨーロッパで労働問題に興味を持ち、そこでグエン・アイン・コック(阮愛国)と名前を変えている。
  フランスで社会主義運動に傾倒していった。

・ベトナム光復会
  1912年にファン・ボイ・チャウ達のより、フランスのベトナム植民地化に対して抗争を挑み、ベトナムの独立を
  回復するために結成された民族主義組織である。1911年中国で辛亥革命が起こり、ファン・ボイ・チャウは
  中国の革命派の援助でフランスからの独立を果たすべく、1912年中国にわたり広東で従来の維新会を改め
  て光復会を結成した。光復会はやはりクオンデ候を会長に据え、新しく「ベトナム民国」樹立を掲げた。しかし
  中国での革命派の後退もあり、また、ベトナム国内での基盤も薄弱であったことで大きなうねりにはなってい
  ないのが実情でもあった。

・ズイ・タン(維新)帝
  阮朝11代目の王。父10代目王と共に1916年、世界第1次大戦中にフランスに対し反乱を企てたとしてフラン
  スに捕まり、アフリカのレユニオン島に流刑される。

・タイン・クイ(成奉)帝
  阮朝10代目の王。息子11代目:維新帝と共に1916年、世界第1次大戦中にフランスに対し反乱を企てたとし
  てフランスに捕まり、アフリカのレユニオン島に流刑される。

・グエン・アイ・クォック(阮愛国)=ホ・チ・ミン(胡志明)
  1890〜1969年。ホ・チ・ミン(胡志明)の若い頃の名前。本名はグエン・タッ・タン。1890年5月19日北部のゲア
  ン省の儒者の家に生まれた。1911年21歳でヨーロッ  パに渡る。ヨーロッパで労働問題に興味を持ち、そこ
  でグエン・アイン・コック(阮愛国)と名前を変えている。ロシア革命に興味を持ち、マルクス・レーニン主義に
  傾き、1920年フランス共産党の結成メンバーとなる。1925年広東でベトナム青年革命同志会を結成。1930年
  香港にてインドシナ共産党を結成。1941年帰国してベトナム独立同盟(ベトミン)を設立。1942年中国に渡っ
  たところを、ベトナムが共産党が誕生することを恐れた国民党の蒋介石により逮捕された。ここは米国の仲介
  で、蒋介石の設立したベトナム革命同志会(ドンミンホイ)の主席に着かせることを条件に解放説得、蒋介石
  も名前を変えることを条件に同意し、ホ・チ・ミンに改称した。1945年「ベトナム民主共和国」の独立宣言を行
  い、1954年までの抗仏救国の戦いを指導。1954年ジュネーブ休戦協定後、ベトナム北部の社会主義建設と
  祖国再統一の名目の下闘争を指導、1965〜1968年の米国介入のベトナム戦争での先頭に立つ。現在もベ
  トナムで愛される革命指導者の名が高い。

・カイ・ディン(啓定)帝
  阮朝12代目の王。在位は1916〜1925年。フランスの植民地化統治と阮愛国等のインドシナ共産党の間に
  あり、阮朝末期の王でもあった。

・ベトナム青年革命同志会
  阮愛国(後にホーチミンに改称)は1925年中国の広東で旗揚げした組織で、当時ベトナムを支配をしていた
  フランスから武力闘争により開放を意図した。後のベトナム戦争へと突入していく。1930年に生まれたベトナ
  ム共産党(直ぐにインドシナ共産党に改称)の母体でもある。

・ベトナム国民党
  1927年ハノイにて学生、教師、下級官吏などが中心に指導者グェン・タイ・ホック(阮太学)のもとに結成され
  る。民族革命と社会革命を旗印に、テロリズムを戦略にし、1930年にはイエンバイ蜂起を起こすも失敗に終
  わり、グェン・タイ・ホックは処刑される。残党は中国に逃れ組織は壊滅する。1945年の中国国民党の進駐と
  ともにベトナムに帰国し、ベトナム独立同盟(ベトミン)との間で主導権争いを展開、1949年に親仏派と手を
  組みバオ・ダイを擁立し、ベトナム国を作る。


革 命 時 代(インドシナ戦争、ベトナム戦争)

・インドシナ戦争
  1946〜1954年にわたり、ベトナム民主共和国の独立によりフランスとの間で戦われた戦争である。ベトナム
  がフランスの植民地であり、また第二次世界大戦中には一時日本軍がベトナムを占領してフランスの支配を
  無効化したが、1945,8,15に日本の降伏により、阮愛国(ホーチミン)率いるベトナム独立同盟(ベトミン)は八
  月革命により権力を回復、9月2日にベトナム民主共和国の独立宣言を行った。フランスとベトナム民主共和
  国が交渉を続けたが、1946年にベトナム南部にフランス傀儡政権のコーチシナ共和国を樹立させた。12月
  にはフランス軍とベトミンがハイフォンで衝突、ハノイでも全面衝突に拡大しインドシナ戦争が勃発した。物量
  で勝るフランス軍が攻勢のまま1948年フエ、ハノイを占領し、ボー・グエン・ザップ率いるベトミンは山岳地帯
  に後退し、ゲリラ戦を挑んだ。1949年にはコーチシナ共和国に代わり、バオ・ダイを主席とするフランス傀儡
  政権のベトナム国を樹立させた。1950年、ソ連、中華人民共和国(1949年成立)がベトナム民主共和国を正
  統政権と認め、武器支援を行うようになった。これに対し米国がフランスに対し軍事援助を開始した。ゲリラ
  戦に苦戦したフランスは1953年ハノイ北西部にあるディエンビエンフーを占領し兵力を投入し要塞化した。
  1954年ベトナム民主共和国軍がここを包囲し、激戦の末フランス軍は降伏することでインドシナ戦争が終結
  した。戦後関係国の間でジュネーブ協定が結ばれ、ベトナム民主共和国の正式の独立が承認され、北緯17
  度戦を境に南部にはベトナム国が存続することとなった。

・ベトナム戦争
  1960〜1975年。インドシナ戦争後ベトナムの独立と南北統一をめぐる戦争。宣戦布告がないままに戦われ
  た戦争でもあり、ベトナム紛争とも言われる。また、第二次インドシナ戦争とも言われる。
  自由主義の盟主米国は中華人民共和国や東ヨーロッパでの共産主義の台頭がアジアにも及ぶこと、即ちド
  ミノ理論を恐れ、反共産主義勢力を支援して介入するようになった。フランスの撤退後、南ベトナムの政権
  を支えてきた。1955年ゴ・ディン・ジェム首相が大統領に就任して、ベトナム共和国を宣言した。しかし、米
  国の傀儡国家でしかなかった。大統領一族の圧制により国民の信頼はなく、逆に1960年北ベトナム民主共
  和国指導の南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成されゲリラ活動が本格化した。1963年アブバクの戦
  いでベトナム共和国軍画敗北しその無力が露呈されるとケネディ大統領は米軍の直接介入を決断した。米
  国支援の軍事クーデターでゴ・ディン・ジェム大統領と弟の秘密警察長官が暗殺され新政権が樹立された。
  軍事介入を決断したが、本格的な開戦に難色を示したケネディ大統領がダラスで暗殺され、米国の戦争介
  入が整っていく。
  米軍は1964年8月北ベトナム軍の魚雷艇の米軍の駆逐艦への魚雷発射(トンキン湾事件)を口実に米軍が
  軍事行動を開始。米国上下両院で「トンキン湾決議」を可決、本格的介入が策略された。この事件は米国
  の仕組んだ自作自演であることが後日暴露されている。
  1965年ジョンソン大統領はトンキン湾事件を口実にハノイ市などベトナム民主共和国中枢への北爆を開始し
  た。ベトナム民主共和国もソ連や中華人民共和国の支援を受けて直接米軍と戦火を交えた。1967年には最
  大50万人を超える米兵が投入され、韓国など同盟国も5万人が参加した。しかし好転は見られず、反戦的報
  道が増し、ジョンソン大統領は任期切れ直前の1968年北爆の中止を宣言した。
  1968年のテト(旧正月)に南ベトナム解放民族戦線は大規模なテト攻勢を開始し、米軍・南ベトナム政府軍に
  反撃され大打撃を受けるが、以降ベトナム戦争は米軍・南ベトナム政府軍と北ベトナム軍を中心とした戦い
  になる。ニクソン大統領になり、人的被害の多い地上戦を削減し米国内の反戦世論をの沈静化を図るも、
  戦況の好転は図られず、焦ったニクソンは1972年北爆を再開するも、国際世論の反発から短期間で中止を
  せざるを得なかった。ニクソンは就任直後からキッシンジャー大統領特別補佐官に北ベトナム政府との秘密
  裏の和平交渉を命じていたが、1973年北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問官との間で和平協定案の仮調印を
  行った。直ぐに米国、北ベトナム、南ベトナム、臨時革命政府の4者間でパリ協定が交わされる。協定に従
  い米国軍のベトナム撤退が始まり、1973年3月末に撤退が完了した。これにより、南北正規軍の直接戦争
  に変った。北ベトナム軍は米国の再介入がないのを確認すると1975年南ベトナム軍に対して全面攻撃を
  開始した。フエ、ダナンと陥落し、バンメトートも陥落し、グエン・バン・チュー大統領は米国に対し軍事援助を
  要請するも、アメリカ議会は南ベトナム政府を見捨て、グエン・バン・チュー大統領は辞任し、遂にはサイゴン
  の陥落を迎えた。

・ベトナム共産党
  1925年グエン・アイン・コックなどが結成したベトナム青年革命同志会が母体となって1930年2月、やはりグエ
  ン・アイン・コックが主宰して香港の九龍で設立されている。その後コミンテルンの指示で同年10月にインドシ
  ナ共産党と改称された。この党は1951年2月にベトナム共産党第2回党大会でベトナム、カンボジア、ラオス
  の三つの党に分離をされる。その間ベトナムの革命運動に主導的な役割を果たしている。

・グェン・タイ・ホック(阮太学)
  ベトナム国民党の指導者。1901〜1930年。ハノイの師範学校で学び、1925年フランス植民地当局に対して、
  ベトナム人の生活条件の改善と商工業の発展をさせるための工業学校の設立、ベトナム人が自由に学校
  を創立できる権利の要求などを書いた意見書を提出する。しかしフランスは返事を返すことがなかった。翌
  1926年フランスに対して行政制度の改善と言論規制の解除を要求する。しかしこれも無駄に終わる。1927年
  国民党を結成し議長に選ばれる。テロリズム政策を取り、武装蜂起施行を強め、弾圧が強くなる中、1930年
  イエンバイ蜂起を起こすがフランスに逮捕され処刑され短い一生を終わる。

・ベトナム独立同盟(ベトミン)
  1941年、グエン・アイン・コック(阮愛国):後のホ・チ・ミン等が率いて、フランスからの独立を求めて作られ
  た同盟で、ボー・グエン・ザップなどがいた。第2次世界大戦の中、日本軍がフランスのベトナム支配を無効と
  し、一時フランスインドシナ領を占領したが、ベトミンはフランスに対すると同様に日本軍に対して戦いを挑ん
  だ。米国や中国など日本への敵対を持つ国からベトミンへの資金が流れた。1945年8月、日本が降伏すると
  ベトミンは勢力を回復し、八月革命により権力を奮取し、ベトナム民主共和国の樹立を宣言する。復帰したフ
  ランス軍はフランス連邦の一員として認め、ベトナムはフランスの進駐を認める一時的な妥協が成立した
  が、やがてインドシナ戦争へと進展した。

・ベトナム革命同志会(ドンミンホイ)
   1941年、ベトナムに帰国したグエン・アイン・コック(阮愛国)は抗仏、抗日に尽力したが、1942年中国に渡っ
  たところをベトナムが共産党が誕生することを恐れた国民党の蒋介石により逮捕された。そして、蒋介石は
  ベトミンに代わる組織としてベトナム革命同志会(ドンミンホイ)を結成させた。しかし、その組織のベトナム人
  の殆どが中国在住のベトナム人であったためベトナム国内での活動が出来ない状況であった。そこに米国
  が蒋介石に対してグエン・アイン・コックを釈放してドンミンホイ主席に着任するよう説得し、蒋介石も同盟国
  の米国の要請であり断りきれず、名前をかえることを条件にしてグエン・アイン・コックの釈放を承認した。
  1943年9月釈放されたグエン・アイン・コックは名前をホ・チ・ミン(胡志明)と改名、ドンミンホイとベトミンの両
  者の主導者となった。結局は民衆から歓迎された彼はベトナム解放運動の指導者として突き進むことにな
  る。

・ヴォ・グェン・ザップ(武元甲)
  1912年〜、グエン・アイン・コック(阮愛国)とともにベトナムの革命に多大な功績を残した。1944年、「ベトナム
  武装解放宣伝隊」を組織、ベトナム民主共和国でベトミン、ベトナム人民軍の総司令官として活躍。フランス
  との戦いで、ディエンビエンフーの戦いで人民軍を率いてフランス軍を打ち破ったベトナムでの伝説的な将軍
  として名が高い。非常に優れた軍事戦略家として、ベトナム戦争でも米国軍、南ベトナム軍との戦いでもベト
  ミンを指揮、ベトナムの統一を果たした。統一後国防大臣、首相代理を務めた。

・明号作戦
  インドシナに進駐した日本軍は当初フランス軍と良好関係にあったが、1944年8月連合軍がパリを開放し、
  親ドイツのヴィシー政府が消滅、日本軍は連合軍の攻撃に備え、インドシナ防衛としてフランス軍の武力を
  無くすのが「明号作戦」である。1945年2月28日大本営が武力行使によりインドシナを押さえることを命ず。行
  使を3月9日と決定。同日日本政府は松本大使を通じ、ドクーインドシナ総督に対し全機能を日本軍の指揮
  下に置くよう通告する。期限を待たずに行動が開始され、インドシナ全土で武力行使が行われた。北部、中
  部の抵抗は強かったが、南部は大きな抵抗もなく処理された。3月10日主要地のインドシナ軍の武装解除
  を完了、主要機関の占領、交通、通信機関、施設の運営を開始。但し、逃亡したインドシナ軍の補足に苦労
  し、更には北部でのベトミンの活躍があり、当初の1ヶ月での作戦終了は困難となったが、日本軍の軍隊を
  いつまでも分散させておくのは不利と判断、成果半ばにして1945年5月15日をもってインドシナ軍の討伐を中
  止し、明号作戦を終了した。

・バオ・ダイ(保大)帝
  阮朝最後の王(13代目)。在位:1932〜1945年。フランスで教育を受け、父である12代啓定帝が崩御して帰
  国する。フランスの武装解除を行った日本軍はフエに傀儡政権を樹立し、バオ・ダイ帝はフランスとの不平
  等条約を廃棄し、日本軍に協力した。しかし、8月15日、日本軍が無条件降伏し、インドシナ共産党の革命
  が成立すると、22日にはバオ・ダイ帝は退位しここに 阮朝はその幕を閉じる。ホーチミンにより新政府の最
  高顧問に任命される。しかし、外交代表団の一員として中国訪問中に亡命し、その後香港に移る。1949年再
  度復帰したフランスの支援を得て、元首としてベトナムに帰国、1954年ジュネーブ会議で正式にベトナム国
  が認められ元首となる。その後ゴ・ディンディエムを首相に指名。さらにはこの指名を後悔しクーデターを起
  こすも失敗し、フランスに亡命する。

・ベトナム解放軍
  1944年、ヴォ・グェン・ザップにより創設された「ベトナム武装解放宣伝隊」が急速に兵員数を増していき、日
  本軍が1945年3月にフランス植民地主義に対抗して武力行使である明号作戦を行った頃には既に数戦のゲ
  リラ兵となっていた。フランスの武装解除を受け、ベトミンは闘争指令を発し、同年4月15日に正式に「ベトナ
  ム解放軍」の創設を行った。やがて8月革命へと突き進むのであった。

・八月革命
  フランスのヴィシー政権が崩壊し、インドシナ植民地政府の動揺を感じた日本軍は明号作戦でフランス軍の
  武装解除を行った。日本はベトナムの形式的な独立を認めてバオ・ダイ帝を担ぎ出し、傀儡政権であるベト
  ナム帝国を樹立させた。この年はベトナムは不作で多くの餓死者を出し、ベトナム人の反日感情が増した。
  この機にボー・グエン・ザップ将軍を司令官とするベトナム解放軍が発足し、各地でベトナム帝国と対峙した。
  1945年8月半ば日本軍の降伏が近いことを知ったホーチミンは8月13日総蜂起を指令した。8月17日にはベ
  トナム帝国を擁護する集会が乗っ取られ、ベトナム独立を叫ぶ民衆に主導権が移り、19日にはベトミンはハ
  ノイの政府機関のコントロールを握った。日本軍も自らの降伏でなす術もなく、フエ、サイゴンでも人民蜂起
  によりベトミンの手中に収められた。30日にはフエのバオ・ダイ帝は退位を宣言、日本軍もフランスより没収
  した武器の引渡しを行った。こうして日本軍の降伏とフランスの復帰が未だされていない中での革命が成功
  を収めた。

・ベトナム民主共和国臨時政府
  8月革命を民衆自らの手で勝ち取ったホー・チ・ミン率いるベトミンはバオ・ダイ政権を揺さぶり、政権移譲が
  なされ、ここにベトナム民主共和国臨時政府を成立させた。そうして9月2日には独立宣言を行い、ベトナム
  民主共和国が誕生することとなる。

・コーチシナ共和国
  1946年から1948年まで存在したフランスの傀儡政権である。ベトナム民主共和国の独立宣言を認めないフ
  ランスは、ベトナム南部のコーチシナはフランスの支配していた地域であり、多くのフランスの利権が存在し
  ていただけに、ベトナム独立を目指すベトナム民主共和国からの分離をする目的で設立された。1949年に
  成立したフランス傀儡政府のベトナム国に吸収される形で消滅した。

・インドシナ共産党
  ベトナム共産党が1930年にコミンテルの指示でインドシナ共産党と改名させられたものである。1951年の党
  大会でベトナム・カンボジア・ラオスの三つの党へ分離されるまで存在した。ベトナム人が中心の党であり、
  ベトナムの革命運動で主導的役割を果たしてきた。現在のベトナム共産党、カンボジア人民革命党、ラオス
  人民革命党の前身でもある。

・ベトナム国
  フランスの傀儡国家で、1949年から1955年まで存在した。阮朝最後の王バオ・ダイを国家主席としてベトナ
  ム民主共和国に対抗してフランスがベトナム南部の作った国である。最終的にはインドシナ戦争が終結し、
  ジュネーブ協定により南北が二分され、ゴ・ディン・ジェムが南部を掌握してベトナム共和国を成立したこと
  で消滅した。

・ディエン・ビエン・フー
  ベトナムの北西部、ラオス国境に近い町。険しい山々に囲まれた盆地で、インドシナ戦争において劣勢となっ
  たフランス軍はここに大要塞を築きベトナム民主共和国人民軍を迎え撃つ作戦を取った。ナヴァール将軍指
  揮下に1万6千人の兵力を投入した。一方ボー・グエン・ザップ将軍率いる人民軍は中華人民共和国から武
  器、弾薬の援助を受け、人海戦術で要塞を見下ろす山頂に密かに大砲を設置、要塞を包囲した。人民軍が
  3月13日フランス軍の要塞を攻撃開始、その後65日間の壮絶な戦いを挑んだ。フランス軍は完全に包囲さ
  れ、劣悪な環境と人民軍の人海戦術的な突撃に悩まされ、5月7日要塞は陥落した。落下傘部隊で補強され
  ていた2万人以上のフランス軍は2,000人以上の死者を出し、1万人以上が捕虜となった。一方の人民軍も10
  万人以上の軍の内、8,000人が戦死し、15,000人が負傷したといわれる。この一線がインドシナ戦争の勝敗
  を決し、ジュネーブ和平会談に向け大きな影響を与え、7月21日のジュネーブ協定へとつながった。

・ゴ・ディン・ジェム
  ベトナム共和国の初代大統領で、1955年10月〜1963年11月まで南ベトナムの政権を掌握した。フエ出身
  で、本人は熱心なキリスト教の信者であり、このことがカトリック優遇政策に傾き、仏教徒の反発を招いた。
  特に1963年には各地で抗議デモが頻発し、これに対し、弟のゴ・ディン・ヌーが秘密警察と軍特殊部隊を掌
  握する形で弾圧を行った。しかし、同年11月に米国主導の軍事クーデターが勃発し、同政権は崩壊した。ゴ・
  ディン・ジェムは弟など家族と共に殺害された。

・南ベトナム解放民族戦線
  南ベトナムの一般市民により反米、反帝国主義組織として1960年に自発的に結成されたとしているが、実際
  にはベトナム民主共和国のゲリラ部隊として組織的に結成されたものである。ベトナム民族の解放を目的と
  し、ベトナム戦争ではゲリラ戦で米軍や南ベトナム軍を大いに悩ませた。俗称のベトコンで知られる。

・アプバクの戦い
  1963年1月、米軍の火力支援、航空攻撃の支援で装甲車でアブバクに侵入した南政府軍が解放戦線のゲリ
  ラの頑強な抵抗に遭い、大きな被害を受けて敗走した。この戦いに敗れたことで、ベトナム共和国政府軍の
  無力さが露呈されるとともに、米軍の特殊戦争戦略に大きな打撃を与えたことになった。このことがベトナム
  への介入に難色を示していたケネディ大統領に直接介入を決断させた。ケネディの暗殺後、米軍の直接介
  入の体制が整い、ジョンソン大統領により北爆の開始へと繋がっていった。

・トンキン湾事件
  1964年8月2日、北ベトナムのトンキン湾で3隻の北ベトナム魚雷艇が米軍の駆逐艦「マドックス」に対して魚
  雷と機関銃で攻撃を行う。「マドックス」は直ちに反撃し、艦載機の支援を受けて魚雷艇の1隻を撃破、他の
  2隻にも損害を与えた。これをきっかけにして米国は本格的にベトナム戦争へと突入するきっかけとなった
  事件。なお2日後の8月4日にも同様の事件があり、米軍が北ベトナム軍艦艇のレーダー目標に対し発砲し
  た。しかしこれは後日、米軍の捏造とされる見解が本当のところとされている。

・テト攻勢
  1968年1月29日、ベトナムの正月(テト)に、北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)により行
  われた大攻勢のことで、ベトナム戦争最大の転機になった。攻撃は南ベトナムの41都市に対し行われ、ほ
  ぼ同時に基地や空港23ヶ所が攻撃された。襲撃されたのは、大都市ではフエ、サイゴン、基地ではダナン、
  ビエンフォア、タンソニアット空港、更にはケ・サンの米軍重砲基地が含まれる。特にフエでは2月25日まで約
  1ヶ月の攻防が続き、この都市の周辺だけで両軍の兵士8,500人、市民6,000人が死亡、11万6千人が住居を
  失ったとされる。ベトナム全土では北側の死者45,000人、南側の死者は4,300人、市民の死者14,000人と言
  われており、北ベトナム側の軍事的敗北は明白であるが、政治的、戦略的勝利を勝ち得たとも言われる。即
  ち、米軍の軍事的損失は余りにも大きなものであった。サイゴンでの戦闘が米国に生中継され、南ベトナム
  の警察庁長官が路上でゲリラを射殺するシーンが全世界に配信され、大きな衝撃を与えた。米国をはじめ、
  世界各国の反戦ムードを高めることともなり、米軍全体の士気を落とすことにもなった。テト攻勢までは米軍
  首脳部は将来的な楽観論を述べていた。しかしこの一斉蜂起を目のあたりにした米国国民はようやく真実を
  知ることなり、この意味でテト攻勢はベトナム戦争の将来に決定的な役割を果たしたのである。

・南ベトナム共和国臨時革命政府
  南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の労働党員が1969年に樹立した南ベトナムの臨時政府である。平和で
  民主的な南ベトナムを実現することが基本政策であり、1975年にベトナム共和国を消滅させて南ベトナムを
  統一させた。ただ、主要閣僚はいずれも労働党員で占められており、その実態は北ベトナムの傀儡政権で
  あった。結局正式な政府に発展することなく、ベトナム社会主義共和国の樹立により消滅をした。

・ソンミ村虐殺事件
  1968年3月16日米軍のカリー中尉の部隊がクアンガイ省のソンミ村を襲撃。無抵抗の村民504人を虐殺し
  た。当初はベトコン部隊との戦闘と報告されたが、翌年の12月に雑誌「ニューヨーカー」の記者により事件
  が明るみにされた。米軍の歴史に残る虐殺であった。本事件は現場に居合わせた数人の米軍兵士からも
  軍に対して報告をされていたが、軍上層部は世論の反戦を煽ることを恐れて事件を隠蔽していた。1970年に
  軍事法廷が開かれ、関与した兵士14人が殺人罪で起訴されたが、1971年の判決ではカリー中尉だけが終
  身刑を言い渡され、残りは証拠不十分で無罪となった。なお、カリー中尉もその後懲役10年に減刑され、さら
  に、1974年に仮釈放された。

・上海コミュニケ
  1972年2月、ニクソン大統領が中国を訪問、毛沢東主席、周恩来首相と会談し、28日に上海においてアメリ
  カ合衆国と中華人民共和国の両国のこれまでの敵対関係を終わり、両国の正常化を図る「米中共同コミュ
  ニケ」に調印をした。場所の上海をとり、「上海コミュニケ」と呼ばれる。いわゆる米中接近がなされた。

・ベトナム和平協定
  1973年1月28日、ベトナムにおける戦争を終結させ、平和を回復するための協定がパリにて調印された。調
  印はアメリカ合衆国代表:ロジャー国務長官、ベトナム共和国政府代表:ラム外相、ベトナム民主共和国政
  府代表:チン外相、南ベトナム共和国臨時革命政府代表:ビン外相の4者の間で行われ、ベトナム和平協定
  (パリ和平協定)が発効した。同協定によりグリニッジ標準時1月28日午前零時(ベトナム時間1月28日午前
  8時)停戦が発効した。ただ、パリ協定は、米国とベトナム民主共和国の直接交戦の停止が規定されたが、
  南ベトナムのティエウ・キ政権と臨時政府の並立抗争にまでは及ばなかった。米国は急ピッチに撤兵を進
  め、3月29日をもって撤兵が終了したが、並立抗争はそのまま続き、1975年4月30日にサイゴン陥落により
  はじめて終結にいたった。

・サイゴン陥落
  1975年4月21日、グエン・バン・チュー大統領が辞任し、後任としてチャン・バン・フォン副大統領が就任した。
  土壇場での停戦交渉が期待されたが、北ベトナム政府代表団は4月21日正式に拒否し、フォン大統領は4月
  29日わずか8日で辞任した。後任として穏健派のズオン・バン・ミン将軍が就任したが、サイゴン郊外のタンソ
  ニヤット空港が包囲されるなど完全に退路を断たれた。南ベトナム政府上層部やその家族、残留米国人な
  どはサイゴンの沖合いに待機する米空母への脱出を試み、4月30日にはチュー元大統領やマーチン米国大
  使等、要人が米軍のヘリコプターで脱出した。北ベトナム政府軍は米国の要請を受け、サイゴンに残留する
  米国人の完全撤退までサイゴン市内への突入を控えた。同日午前、ミン大統領は無条件降伏を宣言、北ベ
  トナム軍が大統領官邸に突入、南ベトナム政府は崩壊した。

・ベトナム社会主義共和国
  南北統一により1976,4,25、統一選挙を実施。7月1日南北統一が正式に承認され、ベトナム民主共和国から
  ベトナム社会主義共和国に改称される。政治はベトナム共産党による事実上の一党独裁政治である。

・レ・ズアン書記長
  1976,12,14、ベトナム労働党第4回大会開催。労働党から共産党に改称。レ・ズアン書記長が選出される。中国
  批判が鮮明化する。

・カンボジア侵攻
  当時カンボジアではポル・ポト政権が力で支配し、カンボジアを追放されたヘン・サムリン将軍のグループは
  ベトナムに逃げ、政権復帰のチャンスを伺っていた。ポル・ポトは中国に接近、「原始共産制」を中国の文化
  大革命に倣って布いていた。一方のベトナムはホーチミン以来のソビエト贔屓でもあり、更に中国とソビエト
  は「スターリン批判」以来犬猿の仲であった。1978年、ベトナムはヘン・サムリン率いる「カンボジア救国民族
  解放戦線」を支援する形でカンボジアに侵攻、ポル・ポト政権に対峙した。

・ボートピープル
  ベトナム戦争終結後ベトナム社会主義共和国はベトナム南部に残っている経済システムの破壊に奔走し
  た。近隣諸国が経済の発展を始めるこの時期に生活不安を感じた南部を中心に多くの人々がベトナム脱
  出を試みた。その中には、生活不安から体制に反感する者、南ベトナム政府にで仕事をしていた者(新体
  制では明らかに差別を受けていた)、チョロン地区の多くの華人、戦時中にサイゴンに流入した約350万人の
  人々が中部高原や開拓村に強制的に送り込まれ、生活に耐えられなくなった人々など、様々な境遇の人た
  ちであった。世界の国々に難民として保護されたが、同時に多くの人々が脱出に失敗し難破して死んでいっ
  た。現在のベトナムの発展を支えている一面として、海外に逃れ成功してベトナムにいる同胞に仕送りをす
  る越僑(ベトキュウ)と呼ばれる人々がいることも大きな特徴である。

・中越戦争
  カンボジア侵攻をみせたベトナムであるが、ここには中国とソビエトの対立も絡んでいた。すなわち、ソビエト
  はベトナムを支援し、中国はカンボジアを支援する構図となっていた。中国のケ小平は1979年2月27日にベ
  トナムへの懲罰として雲南と広西から20万の大軍をベトナムに侵攻させた。中国軍は国境の町ランソンを占
  領したが、ベトナム戦争での実戦経験に長けたベトナム軍が機動力を駆使しながら兵力の温存を図り撤退
  をしたものであった。一旦退いたベトナム軍が反撃を開始すると中国軍に大損害を与えた。中国軍は人海
  戦術に頼り、装備は旧式のものであった。中国軍は占領した都市を徹底的に破壊し、撤退を開始し、3月16
  日に撤退完了をした。この戦いで中国軍は2万人の戦死と、4万人の負傷者を出し、ベトナム軍も同程度の
  損害と、住民1万人が死亡した。中国首脳部はこの戦いで装備の立ち遅れを痛感し、軍の近代化へと進む
  ようになった。ベトナム外相が江沢民に謝罪を要求したが、謝罪を拒否した。

・ドイモイ政策
  打ち続いた戦争の影響でベトナムの経済発展は著しい遅れをとっていた。1986年12月、これを修正するた
  めに第6回共産党大会において、打ち出された政策で、「市場経済の導入」と「対外開放=全方位外国」を2
  本柱とする。社会主義体制を堅持しながら改革開放路線を進むことが明記されている。ドイ・モイは日本語で
  “刷新”と訳されます。結局は経済破綻寸前の苦肉の策でもあったわけですが、工業の優先、国営企業の重
  工業から消費財の生産への移行、外資導入による国際経済の受け入れが骨子でもあった。ドイモイにより、
  腐敗や、競争性の無かった国営企業寡占の状態が活性化され、順調な経済成長を歩む一歩となった。

・米越通商協定
  ベトナム戦争後1995年に両国は国交正常化を行い、経済面でも通常の通商関係を築いてきた。この通商協
  定により、米国はベトナムに対し通常貿易関係をを供与し、1年ごとに見直すことにした。ベトナムは、米国市
  場で諸外国との対等な競争が可能となり、それまで多くのベトナム製品が輸入関税を約40%にされていたの
  がyaku4%に下げられたことによる。一方米国は、米国企業が長期的に見てベトナムで対等な条件でビジネ
  スを行うことが出来る。ベトナムに対して、農産物など約250種の輸入関税を30%〜50%削減、金融・通信など
  の市場開放、外国投資企業への規制緩和、法規制実施の透明化などを迫っている。

・日越投資協定
  日本企業の対ベトナム投資は1997年の6億5,700万ドルをピークとして、2001年には1億5,900万ドルと大幅に
  減少した。投資意欲回復にはベトナムでの日本企業の安心感を回復することが重要とされた。ベトナムでの
  投資環境の改善が現地日本企業からも寄せられており、ベトナム側への強い要望として取り組まれた。ベト
  ナムに対しては、国内投資環境に関する法整備がベトナムにとっても有益であるとして、2001年に発効した
  米越通商協定がベトナム側に広範な自由化義務を負わせていることに鑑み、日本の投資家の保護と、投資
  促進に大きく寄与できる協定となっている。現実には本協定の認可後多くの日本企業がベトナム進出を果た
  し、ベトナム投資の2次ブームが到来しているといえる。

・グエン・タン・ズン首相
   1949年11月17日生、キン族、ベトナム史上最年少の若さで1996年から党政治局員となり、97年には副首相に
   なった。経済成長の著しいベトナムの次のリーダーとして早くから嘱望されてきた。ベトナム最南端のカマウ
   省の出身で、18歳で入党、大学では法律を専攻した。警察や軍での経験に加え、地方政界での要職、中央
   銀行総裁や副内相の経歴も持つ。このため治安、国防、内政、経済など国政全般に通じ、何でもこなせると
   期待される。非効率な国営企業の改革で陣頭指揮を発揮し存在感を認められている。前首相のカイ氏が大
   の日本びいきであったのに反し、ズン氏は中国びいきと言われている。しかし、日本との関係維持を意識して
   か、最初の訪問国に日本を選んだ。

・グエン・ミン・チェット大統領
   1942年10月8日生、キン族、南部ビンズオン省出身、1965年入党、党大衆工作委員会委員長、ホーチミン市党
   委書記などを経て大統領に就任。

米越貿易枠組み協定(TIFA)
   2007年6月21日、チェット大統領が訪問越し両国間で締結された。経済・貿易協力における関係促進のための
  方針や政策のほか、双方の障害となっている問題の解決について協議していく枠組みが整うことになる。さら
  に、工業や農業、サービス各部門の貿易拡大、二国間の貿易促進のため新たな共同宣言を作成していくこととな
  る。TIFA調印は両国の経済関係において、2001年調印の米越二国間通商協定に続く大きなステップとなり、自
  由貿易協定締結に向けての重要な条件を満たすものである。

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