年 代 | 歴 史 事 項 | 備 考 | ||
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ベ ト ナ ム の 創 始 期 | ||||
前期旧石器時代 | ベトナム最古の遺跡がタインホア省のヌイド(ド山)で出土 | |||
紀元前20000〜10000年 | 中石器時代の遺構が出土 | ソンビ文化 | ||
紀元前10000〜5000年 | インドシナ半島を中心に多数の洞窟で遺構が出土 | ホアビン文化 | ||
紀元前6000〜5000年 | 新石器時代の遺構が出土。末期には稲の栽培か。 | バクソン文化 | ||
紀元前2880 | 伝説によると、フン・ヴォン(雄王)が現在の北部紅河デルタ地帯にヴァンラン(文郎)国家を設立。 | 金属器文化が広まる | ||
紀元前2000〜1400年 | 高地と紅河デルタ地帯で青銅製装飾品が多数出土:ゲィンフ省フングェン遺跡 | フングェン文化 青銅器文化時代 |
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紀元前1400〜1100年 | ビィンフック省ドンダウ遺跡 | ドンダウ文化 青銅器文化時代 |
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紀元前1100〜800年 | 紅河デルタ地帯、ゴムン遺跡 | ゴムン文化 青銅器文化時代 |
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紀元前800〜300年 | ハノイ郊外,ドンソン遺跡。銅鼓と呼ばれる青銅器太鼓が出土。 中部ではチャム文化が芽生える。 |
ドンソン文化 青銅器文化時代 |
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紀元前400年 | 紅河上流域で鉄の製錬技術の出現。 中部地方でも鉄の文化がみられる。 |
サーフィン文化 | ||
紀元前257年 | アン・ズオン・ヴォン(安陽王)に、ヴァンラン(文郎)国が滅ぼされ る。コ-ロア(古螺)に築城。 |
アウラック(甌駱)国 | ||
紀元前207年 | チョウ・タ(趙陀)が中国広東にナム・ビエット(南越)国を建国、ア ンズオン・ヴォンを滅ぼし、北部ベトナムまで支配。 |
南越国、趙王朝 | ||
紀元前111年 | 漢の武帝が南越国を滅ぼす。ベトナム北・中部に交趾、九真、日南の三郡を置き、漢が統治する機関をベトナムに置いた。 | 北属期。938年まで中国王朝(漢〜唐)の支配 | ||
西暦40〜43年 | チュン・チャック(徴側)、チュン・ニ(徴弐)の姉妹(ハイ・バー・チュン)が後漢に対して反乱。自立して65の城を支配。 | ハイ・バー・チュンの乱 | ||
43年 | 後漢の伏汲将軍;馬援がハイ・バー・チュンを攻撃し、殺害。後漢による直接支配が確立。 | 母系社会から父系社会への移行 | ||
137年 | 中部の日南象林でク・リエン(区憐)が後漢に反乱 | |||
144年 | 後漢と和睦しラムアップ(林邑)国を樹立。後のチャンパ国となる。 | チャム王国 | ||
150年頃 | メコンデルタにブナム(扶南)国建国。 | |||
157年 | 九真で反乱。 | 鎮圧 | ||
178年 | 交趾で梁龍が反乱。ベトナム人のリ・ティエンが勅史に任命され る。 |
鎮圧 | ||
248年 | チュウ・アウ(趙嫗;チュウ夫人)の反乱 | 現在のタインホア省 | ||
399年 | チャンパ国の氾胡達が日南、九真を攻撃 | |||
413年 | 勅史、杜憲度が侵略してきた苑胡達を殺害 | |||
415年 | 杜憲度がチャンパに反撃 | |||
5世紀頃 | カンボジア人がブナム(扶南)を攻略 | |||
542年 | 北部の交州でリ・ビ(李賁)が反乱。544年中国より独立しベトナム初の帝を称し、リー・ナム・デ(李南帝)とし、ヴァン・スアン(萬春)国を名乗る。 | 年号を天徳とする | ||
545年 | リー・ナム・デ(李南帝)は梁の反撃に合い敗退、全権をチュウ・クアン・フック(趨光復)に譲る。 | |||
548年 | リー・ナム・デ(李南帝)が病死、チュウ・クアン・フック(趨光復)が梁軍を破り、チュウ・ヴィエット・ボン(趨越王)を名乗る。内部分裂となり、リ・ファト・トウ(李仏子)が後継者となり後李南帝を名乗る。 | |||
550年頃 | メコンデルタのブナム(扶南)がクメール族に滅びる | |||
602年 | 隋が攻撃し、リ・ファト・トウ(李仏子)を捕虜として後に殺害。再び 中国の支配となる。 |
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605年 | 隋がチャンパを攻撃 | |||
679年 | 唐が交州を安南都護府とし、広州を分離して12州を統括する。 | |||
687年 | リ・トク・ティエン(李嗣先)、ディン・キエン(丁建)の農民反乱 | |||
722年 | マイ・トゥック・ロアン(梅叔鴬)の反乱。マイ・ハック・デ(梅黒帝)と呼ばれた。唐の反撃に合い山岳に逃れるも病死。 | |||
766〜791年 | フゥン・フン(馮興)の反乱。 | |||
768年 | 日本人、阿倍仲麻呂(朝衡)が安南都護に任命される. | 遣唐使 | ||
860年 | 中国 雲南に興った南詔王国が交州を襲い府城を攻略。866年敗退。 | 高斯将軍が来援 | ||
875年頃 | クァナム(広南)のインドラプラにチャンパの新都造営 | |||
907年 | 唐が滅び劉製が広州で南漢を名乗る。クック・トゥア・ヅ(曲承祐)が中国の後梁に願い節度使となる。 | 後梁:唐末に出来た中国の王朝 | ||
923年 | 後梁が滅び、南漢が交州を攻撃し、曲承祐の孫クック・トゥア・ミイ(曲承美)を捕虜にして殺害する。 | |||
931年 | クック・トゥア・ミイ軍の将軍ズオン・ディエン・ゲ(楊廷芸)が南漢軍を破り、自ら節度使となる。 | |||
937年 | ズオン・ディエン・ゲが軍の武将、キュウ・コン・ティエン(矯公羨)に殺される。 | |||
938年 | ズオン・ディエン・ゲの婿の武将ゴ・クエン(呉権)が決起し、キュウ・コン・ティエンの依頼で南漢が大船団を派遣したがバクダン(自藤)江でゴ・クエンの計略にかかり全滅する。 | バクダン河の戦い | ||
939年 | ゴ・クエンが王を名乗り、首都をコ・ロア(古螺:現在のハノイ)に置き、中国の支配から独立。 | 呉朝:938蚊ら966年 | ||
944年 | 呉王死後内紛が続き、紅河デルタ地区の土豪が群雄割拠し、十二使君(12人の土豪)時代となる。 | 十二使君時代 | ||
967年 | 十二使君j時代を経てディン・ボ・リン(丁部領)が主導権を握る。中国から実質的な独立。 | 大越国の成立 | ||
968年 | ディン・ボ・リン(丁部領)が帝王となり、都をホアウルとし、国号をダイ・コ・ヴィェト(大瞿越=大越国の意味)とした。 | 丁朝:968〜979年 | ||
970年 | はじめて元号を建てタイ・ピン(太平)とする。 | |||
979年 | ディン・ボ・リンが後継者争いで殺される。大将のレ・ホアン(黎桓)が実権を握り副王となる。 | |||
980年 | 宋が侵攻するとの報せで、レ・ホアンが帝王に推挙される。 | 黎大行皇帝 | ||
981年 | 宋が海陸2方面から侵攻。レ・ホアンはバクダン江で宋の水軍を全滅させ、チ・ラン(支稜)関で宋の陸軍を破る。 | 前黎朝:980〜1010年 | ||
982年 | レ・ホアンがチャンパの王都インドラプラを占領、破壊し、チャンパの中心が南方のヴィジャヤに移る。 | チャンバはベトナムに朝貢。ベトナム統一。 | ||
986年 | 宋はレ・ホアンを安南都護とする。 | |||
李 朝 時 代 | ||||
1009年 | リ・コン・ウァン(李公蘊)が李朝を樹立。 | |||
1010年 | リ・コン・ウァンが帝位(李太祖:リ・タイ・ト)につく。都をタン・ロン(昇龍;現在のハノイ)に遷都する。トア・ティエン(順天)と改元。 | 李朝:1009〜1225年ベトナム初の長期王朝。 | ||
1029年 | ダウナイ運河を掘削 | |||
1036年 | ヌン属のヌン・チ・ウォが反乱、皇帝を名乗る | |||
1050年 | ラム運河を掘削 | |||
1054年 | リ・タイン・トン(李聖宗:3代目)が国号をダイ・ヴィェト(大越)と定める。 | |||
1055年 | チャンパが入貢 | |||
1067年 | 京牢(ラオの一部)が入貢 | |||
1070年 | 文廟(孔子廟)を建立。 | |||
1075年 | 科挙制度を導入。宋の侵攻の情報を聞き、リ・トン・キェト(李常傑)将軍が10万の軍を率いて宋に侵攻 | |||
1076年 | 宋はチャンパ、真臘(カンボジア)を率いて侵攻。リ・トン・キェトは如月江(カウ河)と富良江(紅河)で宋の水軍を撃破。 | |||
1104年 | リ・トン・キェトがチャンパを討つ。 | |||
1105年 | リ・トン・キェト死去 | |||
1127年 | 文廟にベトナム最古の大学(国子監)が出来る | この頃アンコールワットが建立 | ||
1145年 | カンボジアがチャンパを占拠 | |||
1164年 | 宋が6代のリ・アイン・トン(李英宗)に安南国王の称号を与え、交趾国を改め、安南国とする。 | |||
1182年 | 遁羅国(シャム)が来貢 | |||
1223年 | チャン・トゥ・ド(陳守度)が殿前指揮使となり実権を握る | |||
陳 朝 時 代 | ||||
1225年 | チャン・トゥ・ド(陳守度)が8歳の甥;チャン・タイ・トン(陳太帝)を皇帝につけ、自らを太師と称し、国尚父として君臨する。首都は引続きタンロンとした。 | 陳朝:1225〜1400年 | ||
1242年 | 村落の行政組織を定める。宮廷の権限は省、郡レベルまでとする。 | |||
1253年 | チャン・タイ・トンが国子監を建立、全国の儒学者を集めて四書五経を講じさせる。 | |||
1257年 | モンゴルのフビライ汗が宋を南から攻撃したいのでベトナムを通過させるよう要求したが、これを拒否。元は陳を攻撃しタンロンを占拠するも暑さと食糧不足で撤退する。 | モンゴル軍による第一次侵攻 | ||
1272年 | レ・ヴァン・フウ(黎文休)がベトナム最初の歴史書「大越史記」を皇帝の命により編纂する。 | 1271年、フビライ汗元朝を建立 | ||
1276年 | 元が中国南部を平定し、ベトナムに対しても国王が来朝し、租税を納めるよう要求してくる。 | 1274年:元軍が日本へ侵攻 | ||
1280年 | 木材と織物の計量基準を定める。 | |||
1283年 | 元が50万の軍勢で侵攻することを聞き、チャン・フン・ダオ(陳興道)を国公として総指揮官に任ずる。 元のトアドがチャンを攻撃する。 |
1281年:元軍が2度目の日本侵攻 | ||
1284年 | 12月に元軍50万の侵攻始まる。 | 元による第二次侵攻 | ||
1285年 | 元軍のトアドの50万の兵がチャンパから侵攻し、タンロンを占領し、住民を虐殺する。チャン・ニヤン・トン(陳仁宗)らはタインホア(清化)に逃れる。元軍は紅河デルタ地帯を占拠するが、チャン軍はゲリラ戦を展開し、トアドは殺され、5万人が捕虜となる。 | |||
1287年 | 12月に元軍30万が陸海から侵攻。チャン廷は再びタンロンを離れる。民衆が食糧を隠し、元軍は食糧不足からタンロンを放火し撤退。 | 元による第三次侵攻 | ||
1288年 | ヴァンドル(雲屯)で元の補給艦隊を撃滅。4月にチャン・フン・ダオがバクダン江で元軍を壊滅し、ウマルを捕虜とする。 | |||
1293年 | 元は再度ベトナム侵攻を計画するも、1994年にフビライ汗の死去により中止する。 | |||
1300年 | ベトナムで大地震。チャン・フン・ダオ死去 | |||
1306年 | チャン・アイン・トン(陳英宗:4代)の皇女グエン・チャン・コン・チェア(玄珍公主)をチャンパの王チェマンに嫁がせる。 | |||
1307年 | 陳朝がチャンパの2州を併合する。 | |||
1348年 | ジャワの商船が雲屯海庄(現在のクアンニン省)に来航 | 1352年頃シャム軍がアンコール都城占領 | ||
1376年 | チャン・ズェ・トン(陳叡宗:9代)がチャンパを攻撃 | 1367年中国で元が滅び明朝となる。 | ||
1377年 | チャンパの王チェ・ボン・ガは陳軍を全滅させチャン・ズェ・トンも死亡。 | |||
1389年 | レ・クイ・リ(黎季犂)が長女をチャン・トアン・トン(陳順宗:11代)の皇后とする。 | |||
1390年 | 陳軍がチャンパを襲い、チェ・ボン・ガを殺害する。 | |||
1397年 | 陳朝の実権を握ったレ・クイ・リが首都をタインホア(清化)に移す。四書五経をチュノム(字喃)に翻訳をさせる。 | |||
1400年 | レ・クイ・リが自ら帝と称し、国号をダイ・グゥ(大虞)とし、ホ・クイ・リ(胡季犂)と名乗る。皇帝の位を子のホ・ハン・トゥオン(胡漢蒼)に譲る。 | 胡朝樹立:1400〜1406年 | ||
1402年 | ホ・ハン・トゥオンがチャンバに侵攻。 | |||
1406年 | 中国の明軍が侵攻。ホ軍は敗退し明軍は首都に入る。翌年ホ軍は壊滅する。 | 属明期:1404〜1428年 | ||
1407年 | 陳朝のゲ・トン(芸宗)の次子がジャン・ディン(簡定)帝を名乗り軍を集める。 | 後陳朝:1407〜1413年 | ||
1409年 | チュン・クァン(重光)帝が立つ。明軍はジャン・ディン帝を捕虜とし南京へ護送し殺害。 | |||
1413年 | チュン・クァン帝はラオに逃げるが捕まり、護送中に死去。後陳朝滅ぶ。 | |||
1417年 | 明は安南国を改め交趾国とする。 | |||
1418年 | レ・ロイ(黎利)が清華梁江ラムソン(藍山)で反明軍の義兵を挙げる。 | |||
1426年 | レ・ロイが明軍の王通の大軍を破り首都に迫る。 | |||
1427年 | 明の援軍が侵攻するが、レ・ロイがこれを破る。明の王通が和睦を願い帰還する。 | |||
1428年 | 陳氏の後裔として安南国王になっていたチャン・カオ(陳嵩)が逃亡し死亡。 | |||
黎 朝 時 代 | ||||
1428年 | レ・ロイが即位し、レ・タイ・ト(黎太祖)となる。首都をトン・キン(東京)とし、国号をダイ・ヴィェト(大越)とする。 | 後黎朝;1428〜1527年 | ||
1455年 | ファン・フウ・ティエン(藩孚先)が「大越史記続編」を編纂(陳朝から明の撤退まで) | |||
1460年 | レ・タイン・トン(黎聖宗)が即位する。 | |||
1470年 | チャンパのチャ・トアン国王が侵攻。 | |||
1471年 | レ・タイン・トンがチャンパを侵攻。首都ヴィジャヤを占領。 | チャンパ王国の衰退 | ||
1477年 | 土地改革 | |||
1479年 | 京牢、盆蛮、老槌へ侵攻。盆蛮に鏡寧府を置く。 ゴ・シ・リエン(呉士連)が「大越史記全集」を完成(建国から黎太祖まで) |
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1482年 | 戸籍を作成 | |||
1483年 | 洪徳律例を公布(18世紀末まで使われる) | |||
1511年 | ヴ・クエン(武現)が「大越通鑑通考」を編纂 | |||
1514年 | レ・カオ(黎嵩)が「大越通鑑総論」を編纂 | |||
1521年 | マック・ダン・ズン(莫登庸)が実権を握る。 | |||
1526年 | マック・ダン・ズンが光紹帝を殺害。 | |||
莫 朝 時 代=動 乱 時 代 | ||||
1527年 | マック・ダン・ズンが皇帝と称する。黎朝の旧臣が各地で反乱。 | 莫朝:1527〜1667年 | ||
1532年 | グェン・キム(阮淦)が哀牢で黎朝子孫を帝、レ・チャン・トン(黎荘宗)とし、元和と改元した。 | 黎朝の復興。莫氏との対立。 | ||
1540年 | マック・ダン・ズンが明に対し恭順を表すがグェン・キムが兵を起こす。中国人、日本人、ポルトガル人が中部のホイ・アン(会安)に商港を開く。 | 後期黎朝:1532〜1789年 | ||
1545年 | グェン・キムが降伏してきたマックの将軍に毒を盛られて死亡。チン・キエム(鄭検)が実権を握る。 | 鄭氏政権:1545〜1786年 | ||
1557年 | グェン・ホアン(阮漬)がチン・キエムとの関係悪化を察知し、フエ(順化)に駐留を願い赴任する。 | 鄭と阮の南北対立 | ||
1592年 | チン・トゥン(鄭松)がタンロン城を攻撃。マック軍城を放棄。マック・マウ・ホップ(莫茂冷)が殺される。 | 阮氏政権:1558〜1777年 | ||
1593年 | マック・キン・チ(莫敬止)が殺される。黎氏がタンロン城に戻る。 | |||
1599年 | チン・トゥンが国事を総て裁決する。 | |||
1611年 | グェン・ホアンがチャンパを攻撃。フゥイ・エン(富安)府を置く。 | |||
1615年 | コーチシナ(交趾支那)にキリスト教会が設立。 | |||
1626年 | トン・キン(東京)にキリスト教会が設立。 | |||
1627年 | チン氏がグエン氏に租税納付を迫るが、グェン・フック・グェン(阮福源)が拒否する。鄭軍が攻撃し阮軍と交戦。 宣教師アレクサンドル・ド・ロードが来る。ベトナム語のローマ字化を行い、QUOC NGU(国語)の起源となった。 |
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1653年 | グェンがチャンパを攻撃。カイン・ホア(庚和)を併合する。 | |||
1658年 | グェンがビエン・ホア(辺和)、バリアを占拠 | |||
1679年 | 明朝の滅亡で兵3,000人、船50隻でフエ近海に到着し亡命を願い出る。グェン・フック・ヒン(阮福瀕)の指示で南部、メコンデルタに入植。ジャ・ディン(嘉定)、ビェン・ホア(辺和)、ミ・ト(美淋) | 中国、明朝:1367〜1644年。清朝に。 | ||
1687年 | フゥスアン(宮春=現在のフエ)に建都 | |||
1692年 | キリスト教を禁じ、教会、聖書を焼く。 | |||
1698年 | グェン氏がメコン河にいたるまでのコーチシナを併合。 | |||
1771年 | ビンディンのタイソン(西山)でグェン3兄弟が圧制、物価高騰の不満から反乱。 | タイソンの乱 | ||
1774年 | チン軍がフエに侵入。グェン・フック・トン(阮福淳)はクアン・ナム(広南)に逃げる。 | |||
1775年 | 西山3兄弟の1人、グェン・ヴァン・ニャック(阮文岳)はチンに従うこと誓い、クアン・ナムに侵攻。 | |||
1778年 | グェン・ヴァン・ニャックは王を名乗り、首都をビンディンのドパンに定める。 | |||
1783年 | グェン・フック・アイン(阮福映)がアドラン司教の援助を受ける。 | |||
1785年 | 西山3兄弟の1人、グェン・ヴァン・フエ(阮文恵)がミトでグェン・フック・アインとシャム軍を破る。 | |||
1786年 | グェン・ヴァン・フエ軍が北上、チャン氏を破りフゥスアンを占領する。更に紅河デルタに進撃する。 | 西山朝:1786〜 1802年 |
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1787年 | グェン・ヴァン・ニャックは皇帝を名乗りクィニヨンに、グェン・ヴァン・フエは北平王としてフエに、もう1人の兄弟グェン・ヴァン・ルゥ(阮文侶)南定王としてジャディンに分かれて支配を確立する。 アドラン司教がグェン・フック・アインの代理としてフランスの軍事援助を定めたヴェルサイユ条約に調印。 |
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1788年 | 黎氏が清国に救援を求め、清国軍20万人がタンロンに侵攻する。 | |||
1789年 | グェン・ヴァン・フエ軍が清国軍を掃討する。レ・チュウ・トン(黎昭統)帝も後を追って清国に逃げる。 アドラン司教の依頼したフランス人私兵が到着。グェン・フック・アインはポルトガル、イギリス、タイ、カンボジアの兵、武器弾薬の補給で反撃を開始し、サイゴンを奮回する。 |
後期黎朝の滅亡 | ||
1792年 | グェン・ヴァン・フエ死去。 | |||
1801年 | グェン・フック・アイン軍はフゥスアンを占領し、ジャン河でタイソン軍を破る。 | |||
阮 朝 時 代 | ||||
1802年 | グェン・フック・アインがフエで即位。年号をジャ・ロン(嘉隆)と定める。タンロンにてタイソンを滅ぼし入城。 | 阮朝:1802〜1945年 | ||
1804年 | 清国よりヴィェトナム(越南)の国号を与えられる。 | |||
1806年 | グェン・フック・アインが皇帝を名乗る。全土を統一。 | |||
1815年 | 嘉隆律令の発布。 | |||
1820年 | ミン・マン(明命)帝即位。 | |||
1824年 | フランスとの貿易条約締結を拒否する。 | |||
1833年 | キリスト教の禁止。 ヌン属のノン・ヴァン・ヴァン(農文筆)が反乱:1835年平定される。 |
|||
1836年 | 宣教師を死刑にするとの布告が出る。 | |||
1840-1842年 | アヘン戦争:英国と清国の間の戦争。 | |||
1841年 | ベトナムがカンボジアを併合。 | |||
1846年 | タイとベトナムがカンボジアの共同保護権利を決める。 | |||
1847年 | トゥ・ドゥック(嗣徳)帝即位。 フランス軍がダナン港でベトナムの軍艦5隻を撃沈する。 キリスト教弾圧強化。 |
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1851−1852年 | トゥドゥック帝がフランス人宣教師2人を斬首。 | |||
1857年 | スペイン人宣教師2人を斬首。 | |||
1858年 | フランス、スペイン連合軍がダナン上陸、占領。 | 仏越戦争 | ||
1859年 | フランス軍がサイゴンを占領。 | |||
1861年 | フランス軍がジャディン、ミトを占領。 | |||
1862年 | フランス軍がコンロン島、ビエンホア、バリア、ヴィンロンを占領。 フランスとベトナムが協定に調印(第1次サイゴン条約)。コーチシナ3省を割譲し、フランスのために3港を開港する。キリスト教の布教を認める。 |
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1864年 | 南部抵抗志士チュオン・コン・ディンがフランス軍に殺される。 | |||
1867年 | フランスがコーチシナ全域を併合。経略大臣ファン・タイン・ジャン(播清簡)が毒を飲み自殺。 | |||
1868年 | 南部抵抗志士グェン・チェン・チュックが処刑される。 | |||
1873年 | フランス商人ジャン・デェビュイの雲南交易をベトナムが禁止。 フランス軍がハノイ城を占拠。欽命大臣グェン・チ・フォン(阮知方)が断食で憤死する。 清の黒旗軍が来援しフランス軍を破る。 |
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1874年 | フランスとベトナム条約(第2次サイゴン条約)を結ぶ。コーチシナ6省を割譲。 | |||
1875年 | 南部抵抗志士グェン・フク・フアが処刑される。 | |||
1882年 | フランス軍がハノイ城を占拠。総督ホアン・リュ(黄耀)が戦死。 | |||
1883年 | 清の黒旗軍が来援しフランス軍を破る フランスとベトナムが条約を結ぶ(第1次フエ条約)。アンナム、トンキンの保護領を認める。 |
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1884年 | フランスとベトナムが条約を結ぶ(第2次フエ条約:パトノートル条約)。ベトナムはフランスの保護国となり、フランス総督は外交でベトナムを代表し、ベトナム官吏はフランス指揮かに入る。 | フランスの植民地下に入る。 | ||
1885年 | ハムギ(咸宜)帝の摂政グェン・ヴァン・トゥォン(阮文祥)とトン・タト・テュエット(尊重説)が軍事クーデターを企図するも失敗。グェン・ヴァン・トゥォンは逮捕されタヒチに流される。 フランスと清国が条約を結ぶ(天津条約)。清国がフランスのベトナム保護領化を承認。清国のベトナムに対する主権は消滅。 |
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1887年 | フランスがインドシナ総督府を設置。 | |||
1888年 | ハムギ帝はフランス軍に逮捕されアルジェリアに護送。トン・タト・テュエットは中国・広西に逃れる。 | |||
1895年 | 中部抵抗志士ファン・ディン・フン(藩廷逢)がジャングルで死亡。 | |||
1897年 | 総督にボウル・ドウメ。植民地からの吸い上げとして、人頭税、土地税を増額。アルコール、塩、アヘンの専売収益を奪う。 | |||
1898年 | フランス極東学院(当初インドシナ考古調査団)が設立。 | |||
1899年 | フランスがラオを連邦内に入れ、仏領インドシナ連邦が設立。 | |||
1904年 | ファン・ポイ・チャウ(藩佩珠)が革命運動を組織を設立。クオン・デ侯が会長になる。 | 後のズイ・タン・ホイ(維新会)の始まり | ||
1905年 | ファン・ポイ・チャウが来日し、大隈重信、犬養毅などと面会。人材育成の重要性を知り、ベトナム青年の日本留学運動を始める。また、「ベトナム亡国史」を出版。 | |||
1906年 | クオンデ侯、ファン・チャウ・チン(津周禎)が来日。 ファン・チャウ・チンがインドシナ総督に書簡を送り、植民地制度の根本的改革と、伝統的な試験制度の廃止を提言。 |
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1907−1908年 | ベトナム青年の日本留学であるドン・ズン(東遊)運動始まる。 | 浅羽佐喜太郎の支援 | ||
1907年 | ハノイで「東京義塾」創設。フランスは閉鎖を命令し関係者を逮捕。1908年に閉鎖される。 | 日仏協定調印:日本はベトナム人留学生を弾圧へ | ||
1909年 | フランスが日本政府に対し日仏条約に基づきベトナム人留学生の国外退去を要求。 | |||
1911年 | グェン・タッ・タン(後の阮愛国)がヨーロッパへ出発。 | |||
1912年 | ファン・ポイ・チャウらが広東で「ベトナム光復会」を結成。 | 中華民国成立 | ||
1913年 | 北部抵抗志士ホアン・ホア・タム(黄花深)が暗殺される。 | |||
1914年 | 第1次世界大戦 | |||
1916年 | ズイ・タン(維新)帝がフランスに抵抗したとして父タイン・クイ(成奉)帝とともにフランス軍に逮捕され、レユニオン島に流刑。 | |||
1917年 | ロシア革命:ソ連成立 | |||
1919年 | グエン・アイ・クォック(阮愛国)、ファン・チャウ・チンらが「ベトナム愛国者グループによるベトナム人民の諸要求」の請願書をベルサイユ講和会議に提出。 | 阮愛国=後のホ・チ・ミン | ||
1920年 | グエン・アイ・クオックがフランスで開催されたフランス社会党18回大会でインドシナ代表としてベトナム支配を糾弾する発表を行う。 | |||
1922年 | ファン・チャウ・チンがカイ・ディン(啓定)帝のマルセイユ殖民博覧会出席に際し、辛辣な公開書簡を送り、フエ朝廷を非難。 | |||
1924年 | フナム・ホン・タイが広東でメルラン総督の暗殺を謀るが失敗し、自殺する。 | |||
1924年 | グエン・アイ・クォックがコミンテルンから工作員として広東に派遣される。 | |||
1925年 | グエン・アイ・クォックによりベトナム青年革命同志会が広東に設立。 ファン・ポイ・チャウが上海で逮捕され、ハノイの軍事法廷で終身懲役刑を宣告される。その後恩赦により自宅監禁。1940年自宅にて死去。 |
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1926年 | ファン・チャウ・チン死去。サイゴンの葬儀に数千人が集まる。 | |||
1927年 | ベトナム国民党創設。 | |||
革 命 時 代(インドシナ戦争、ベトナム戦争) | ||||
1930年 | グエン・アイ・クォックが主宰し、香港の九龍にてベトナム共産党創立。(10月にインドシナ共産党と改称) イエンパイでベトナム国民党のグェン・タイ・ホック(阮太学)が蜂起しフランス軍を攻撃するも失敗し処刑される。 |
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1930−1931年 | 中部ゲティンで農民が蜂起、各地に生活向上のデモが発生。フランスは徹底的に弾圧。 | |||
1935年 | 1930年のインドシナ共産党創立を受け、第1回党大会をマカオで開催。 | |||
1939年 | 第二次世界大戦 | |||
1940年 | 日本軍が北部インドシナ・ハイフォンに進駐。 ベトナム共産党がフランス・日本に対して武装闘争を決定。 |
日仏二重支配 | ||
1941年 | グエン・アイ・クォックが中国経由で帰国。パクポに根拠地を作る。ベトナム独立同盟(ベトミン)設立。 日本軍がニャチャンなど南部に進駐。 |
日本軍真珠湾攻撃により太平洋戦争始まる(12/8) | ||
1942年 | グエン・アイ・クォックが中国領内で国民党に逮捕される。 国民党の蒋介石は「ベトナム革命同志会」(ドンミンホイ)を結成させる。 |
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1943年 | 米国の介入でグエン・アイ・クォックにドンミンホイの主席要請。蒋介石は改名を条件にグエン・アイ・クォックを釈放する。 グエン・アイ・クォックからホ・チ・ミン(胡志明)に改名。 |
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1944年 | ヴォ・グェン・ザップ(武元甲)が「ベトナム武装解放宣伝隊」結成。 年末から1945年にかけて北部中心に餓死者が多発。 |
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1945年 | 日本軍のクーデターでフランス軍を武装解除(明号作戦) バオ・ダイ(保大)帝がベトナムの独立宣言(日本の傀儡国家)次いで、カンボジア、ラオスも独立宣言したが、これも日本の傀儡国家であった。 ベトミンが闘争指令を出し、「ベトナム解放軍」創設。 8/15日本が連合国に無条件降伏し、翌日ベトミンが総蜂起指令を出す(八月革命)。ハノイ行政機関を占拠し、フエに「革命軍事委員会」樹立。バオダイ帝は退位し、サイゴンに「南部暫定抵抗委員会」が樹立。ベトミンがハノイに入城し、「ベトナム民主共和国臨時政府」樹立。 9/2ホ・チ・ミン主席が「ベトナム民主共和国」独立宣言する。 ホ・チ・ミンはトルーマン米大統領に8通の独立支援の手紙を送るが無視される。 フランス軍がサイゴンを占拠。 |
9/2現在の独立記念日として祭日。 | ||
1946年 | フランスがベトナム南部にコーチシナ共和国を樹立。 フランス軍とベトミンがハイフォンで武力衝突。更にハノイで全面衝突が起こりインドシナ戦争が始まる。 インドシナ共産党が対仏抗戦指令。ホ・チ・ミンが全国抗戦アピール声明。 |
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1948年 | フランス軍は優位に展開、フエ、ハノイを攻略しホ・チ・ミン軍を山間部に追い払う。 | |||
1949年 | 日本の傀儡政権の元首であったバオ・ダイを元首として、南部にベトナム国樹立(フランス傀儡国家) | 中華人民共和国成立 | ||
1950年 | 中華人民共和国、ソ連がベトナム民主共和国を正統政権と認め、武器支援を開始。 米国、英国がベトナム国を承認 米軍事援助顧問団(MAAG)サイゴンに設置。 |
朝鮮戦争勃発 | ||
1951年 | ベトナム共産党第2回党大会を抗仏戦争中に北部山地で開催。インドシナ共産党がベトナム、ラオス、カンボジアの3党に分離。ベトナム労働党と改名。 クオン・デ候東京にて死亡。 |
日本、サンフランシスコ講和条約調印(ベトナム国が調印) | ||
1953年 | フランスがディエンビエンフーに要塞化する。 ベトナム労働党が土地改革綱領発表。 |
スターリン死去 朝鮮休戦協定 |
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1954年 | ディェンビェンフーでフランス軍降伏。 ジュネーブでインドシナ休戦協定調印。北緯17度線を暫定軍事境界線とする。 「ベトナム労働党南部委員会」が極秘裏に設置される。 |
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1955年 | バオダイ帝廃位。ゴ・ディン・ジェム国家主席に就任。 ベトナム共和国宣言し、ゴ・ディン・ジェム初代大統領に任命。 |
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1959年 | 第15回党拡大中央委員会で南ベトナムの武力解放を決定。抗米救国戦争の開始。 ホーチミンルートの建設 |
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1960年 | 北ベトナム、新憲法公布 第3回党大会で南部武力開放決定。第1次5カ年計画を策定。 レ・ズ・アン第1書記選出。 「南ベトナム解放民族戦線」がタイニン省で発足。 |
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1962年 | 米軍、枯葉剤散布開始 米軍が「南ベトナム援助軍指令部」(MACV)を設置。 |
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1963年 | 南ベトナム都市部で仏教徒の反政府運動が激化。 アプバクの戦いで南政府軍敗退。ケネディの直接軍事介入決断。 反ゴ・ディン・ジェムの軍事クーデター。ゴ・ディン・ジェム兄弟暗殺される。 |
ケネディ米大統領暗殺される | ||
1964年 | 南解放勢力が米軍宿舎を攻撃。 米軍の北爆が開始される。米軍海兵隊ダナン上陸。 「国際軍事指令機構設置」(IMCO)。韓国、オーストラリア、ニュージーランドタイ、フィリッピンが参戦。 米軍が南ベトナムでも爆撃開始。 トンキン湾事件で北ベトナム対南ベトナムの構図から北ベトナム対米国の構図に大きく変化。 |
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1965年 | 北爆が再開される。 | |||
1966年 | ホ・チ・ミンが徹底抗戦を宣言。「独立と自由ほど尊いものはない」の交戦アピール。 北ベトナムが動員計画発表。 |
中国文化大革命 | ||
1968年 | 解放軍がテト攻勢開始。南部主要都市を一斉攻撃。 ジョンソン大統領が北爆中止宣言。 |
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1969年 | 解放軍が「南ベトナム共和国臨時革命政府」樹立。 米軍第1陣撤退。 ホ・チ・ミン主席死去。 ソンミ村虐殺事件発覚。 |
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1970年 | カンボジアでロンノル将軍がクーデターを起こし、シアヌーク元首追放される。南政府軍と米軍がカンボジア侵攻。 米国での反戦運動が全国に拡大。 |
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1972年 | 南政府軍と米軍がラオス侵攻。 ニクソン米大統領が訪中し、上海コミュニケ発表。これを北ベトナム強硬非難する。 北爆再開されるが国際世論に押され短期間で中止。 |
米国ウォーターゲート事件。 日中国交正常化 |
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1973年 | 米国、北ベトナム、南ベトナム、臨時革命政府がベトナム和平協定(パリ和平協定)調印。ベトナム停戦発効。 3/29米軍撤退完了。米司令部解散。 日本と北ベトナム外交関係樹立。 |
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1975年 | 南革命軍がドンソアイ攻撃、陥落。 北正規軍バンメトウト攻撃(タイグエン作戦)。南政府軍崩壊。 ダナン陥落。 北正規軍サイゴンに入る(サイゴン陥落)。ミン大統領無条件降伏。ベトナム共和国消滅。 レ・ズアン等、政府代表団訪中。覇権問題で見解対立。 政府代表団ソ連、東欧8カ国訪問し、諸協定調印。 日本、ハノイに大使館開設。 |
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社 会 主 義 ベ ト ナ ム 時 代 | ||||
1976年 | ベトナム南北統一総選挙。 ベトナム社会主義共和国樹立。国連加盟。 ベトナム労働党第4回党大会開催。ベトナム共産党と改名。レ・ズアン書記長選出。中国批判。 |
中国天安門事件(周 恩来追悼の市民と当局の衝突) | ||
1977年 | ベトナム軍カンボジア侵攻。カンボジアとの国交断絶。 | |||
1978年 | カンボジアから撤退。 ベトナム在住の華人が大量帰国。 中国、ベトナム紛争表面化。中国のベトナム援助打切り通告し、中国の技術者総引き揚げ。 ベトナムーソ連友好協力条約調印。 ベトナム再度カンボジア侵攻。 〜79年にかけ、南部を中心に難民の大量流出(ボートピープル) |
日中平和友好条約調印 | ||
1979年 | 中国軍がベトナム国境に侵攻(中越戦争)。1ヶ月で撤退。 | 米中国交正常化 | ||
1980年 | 通貨リエル発行。 ベトナム社会主義共和国憲法公布 |
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1982年 | ベトナム共産党第5回党大会開催。南部の社会主義改造による経済破綻や、ボートピープルの流出、カンボジア侵攻、中越戦争後の混迷期の大会であった。 社会主義への過渡期を区分し、現実路線に転換。 |
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1984年 | カンボジアでベトナム軍が乾季大攻勢。 | |||
1986年 | ベトナム・ラオス国境画定協定調印。 7月にレ・ズアン書記長死去。 ベトナム共産党第6回大会大会でグェン・バン・リン書記長選出。旧来の社会主義路線を転換し、ドイモイ政策採択(経済刷新推進派の台頭) |
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1987年 | グェン・バン・リン書記長がドイモイの推進を表明する。 社会主義国家管理の刷新、国営企業改革、国家補助制度廃止、3大経済計画(食糧増産、消費物資増産、輸出拡大)を表明。 米国と行方不明米兵の捜索、人道援助で合意。 |
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1988年 | 土地法公布。 外国投資法公布。 南シナ海・南沙群島の領有をめぐり、中国とベトナムの海軍が交戦。 行方不明の米兵捜索の米越専門家会議がハノイで開催。 国会で憲法前文からフランス植民地主義、日本帝国主義、米帝国主義、中国覇権主義、カンボジア反動主義の字句を削除。 |
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1989年 | カンボジアからベトナム軍完全撤退 (プノンペン政府がカンボジアの永世中立を宣言) |
第2次天安門事件(民主化運動の学生を武力鎮圧) | ||
1990年 | 外国人旅行者の個人旅行解禁 | |||
1991年 | 第7回党大会開催。中国天安門事件、東欧共産主義の崩壊を受け、共産圏重視外交から、全方位外交に転換。マルクス・レーニン主義を補強するホーチミン思想を提示。直後にソ連の共産主義も崩壊。 | ソビエト連邦崩壊 | ||
1992年 | 1992年憲法(ドイモイ憲法)公布。 日本、対ベトナム経済援助再開。 |
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1993年 | 新土地法の採択により土地使用権の譲渡を具体化する。 ホーチミン市に日本総領事館開設。 フエの建造物群が世界遺産リストに登録。 |
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1994年 | 経済の好調なパフォーマンスを受け、中間期党大会を開催。工業化・近代化路線を採択。 米国が対ベトナム禁輸措置を解除。 村山首相ベトナム訪問(日本首相の公式初訪問) ハロン湾が世界遺産リストに登録。 |
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1995年 | メコン川委員会設立。ベトナム、カンボジア、ラオス、タイが参加。 ド・ムオイ書記長が日本訪問。 ベトナムがASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟。 米国と国交正常化。ベトナムに米国大使館設置。 太平洋経済協力会議に正式加盟。 |
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1996年 | AFTA計画に参加。 共産党第8回大会開催。ドイモイ路線の発展により、工業化と近代化を推進し、2020年までの経済社会発展計画目標を作成し、それまでに工業国にする目標を立てる。 |
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1997年 | タイビン省で農民暴動発生。 第8期第4回中央委員会総会でレ・カー・ヒュウ書記長選出。 |
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1998年 | APEC(アジア太平洋経済協力会議)加盟 | |||
1999年 | 中越陸上国境画定問題解決 | |||
2000年 | 新会社法施行。 米越通商協定調印 中越トンキン湾領海画定問題解決。 |
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2001年 | 第9回党大会開催。ノン・ドク・マイン書記長誕生、共産党指導部のスリム化を決定。 経済のグローバリゼーションを認め、WTO加盟に向けた経済改革の必要性を認識する。 米越通商協定発効 |
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2002年 | 新内閣発足、ファン・ヴァン・カイ首相留任 | |||
2003年 | 日越投資協定締結、日越外交関係樹立30周年 | |||
2004年 | 日越投資協定発効 | |||
2005年 | ファン・バン・カイ首相がベトナム戦争終結後初めて米国を訪問。 | |||
2006年 | 第10回党大会開催。新3役発足。ノン・ドク・マイン書記長留任。ファン・ヴァン・カイ首相、チャン・ドク・ルオン大統領辞任。グエン・タン・ズン首相(元副首相:南部出身)、グエン・ミン・チエット大統領(元ホーチミン市書記、南部出身)が新任。 11月 APEC首脳・閣僚会議をハノイで開催。 |
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2007年 | 1月11日 WTOへの正式加盟。 フン・ヴォン(雄王)記念日が祭日になる。旧暦の3月10日です。 チェット大統領が訪米。米越貿易投資枠組み協定調印。 第12期国会で省庁の再編を可決。26省庁から22省庁に。副首相が3人から5人体制に。 |
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2008年 | 1月1日から2年間、国連・安全保障理事会の非常任理事国を務める。 8月1日ハノイ市拡大。ハタイ省全域、ビンフック省のメリン郡、ホアビン省4村を統合。 12月25日 日越経済連携協定調印。 |
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2009年 | 日越経済連携協定10月1日発効 11月26日 ベトナムドン5.44%切り下げ。 |
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2010年 | 2月11日 ベトナムドン3.25%切り下げ。 ASEAN首脳会議 ハノイ市でベトナムが議長国で開催。 8月17日 ベトナムドン2.092%切り下げ。 10月10日 ハノイ・タンロン建都1000年 |
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2011年 | 1月12日〜19日 第11回党大会開催。新書記長に国会議長のグエン・フー・チョン氏を選出。 2月11日 ベトナムドン9.3%切り下げ。 2月12日 ベトナムドン0.1%切り下げ。 4月08日 ベトナムドン0.2%切り下げ。 第13期第1回国会が7月21日に開会、3期目のズン内閣が決定。 8月9日、24日、10月4日、5日 各日ベトナムドン10ドン切り下げ。 10月6日:5ドン、11日:15ドン、14日:10ドン、15日:20ドン、16日:10ドン、21日:10ドン、切り下げ。 |
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2013年 | 6月28日 ベトナムドン1%切り下げ。基準値:1ドル=21,036ドン | |||
2014年 | 6月19日 ベトナムドン1%切り下げ。基準値:1ドル=21,246ドン | |||
2015年 | 1月07日 ベトナムドン1%切り下げ。基準値:1ドル=21,458ドン 5月07日 ベトナムドン1%切り下げ。基準値:1ドル=21,673ドン 8月12日 ドルに対して変動幅を±1.0%から2%に。実質的な切り下げ 8月19日 ベトナムドン1%切り下げ。基準値:1ドル=21,890ドン 9月02日 ベトナムが第2次世界大戦後に独立を宣言して70年となる2日、ハノイで記念式典が開かれた。 9月15〜17日、グエン・フー・チョン・ベトナム共産党書記長が公賓として日本訪問。 |
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2018年 | 9月21日、チャン・ダイ・クアン・ベトナム社会主義共和国主席死去。序列2位。 10月1日、元ベトナム共産党書記長、元首相、ド・ムオイ氏が逝去。 |